ユーリ・シャポーリン
ユーリ・アレクサンドロヴィチ・シャポーリン(ロシア語: Ю́рий (Гео́ргий) Алекса́ндрович Шапо́рин;英語: Yuri Alexandrovich Shaporin、1887年11月8日[1] フルーヒウ - 1966年12月9日[1] モスクワ)はソビエト連邦の作曲家・音楽教師。 生涯
![]() 1887年、ロシア帝国・フルーヒウで生まれた。父は画家で、当初は自らも画家を志していた。幼少期はチェロを学び、ギムナジウムのオーケストラで演奏したりしていた。 1906年、父の指示でキエフ大学法学部に入学したが、音楽に強い関心を持つようになり、グリゴリー・リュボミルスキーからから音楽理論と作曲のレッスンも受け始めた。1908年、ミコラ・リセンコの推薦でサンクトペテルブルクへ出て、サンクトペテルブルク大学に入学して法律学を学んだ。同時にペテルブルク音楽院へも入学しようとしたが、結局法律学を修め卒業した後、1913年になってようやくペテルブルク音楽院に入学した。作曲をニコライ・ソコロフ、管弦楽法をマクシミリアン・シテインベルク、楽譜理解をニコライ・チェレプニンのクラスで学び、本格的な作曲に取り組んだ。在学中にロシア古典派の中でもニコライ・リムスキー=コルサコフの影響を強く受けた作曲スタイルを確立した。1918年に音楽院を卒業。
卒業後は、ロシア革命後のレニングラードでもっぱら劇場指揮者として活動した。1919年、ボリショイ演劇劇場の組織にアナトリー・ルナチャルスキー、アレクサンドル・ブローク、マクシム・ゴーリキーらと共に参加し、1928年まで音楽監督および指揮者として活動した。その後は1934年までレニングラード演劇劇場で指揮者を務めた。演劇関係だけではなく、1921年から1922年までは、ペトロザヴォーツクの人民演劇劇場でコンサート指揮者として交響曲演奏の指揮者も務めた。
モスクワに移住するのは1936年になってからで、1939年からモスクワ音楽院作曲科の教授に迎えられた。門下にはエフゲニー・スヴェトラーノフ[2]とロディオン・シチェドリンらを擁している。 1887年にモスクワで死去。墓はノヴォデヴィチ墓地にある[3]。 受賞・栄典
評価・影響シャポーリンはソ連建国時から活躍した作曲家であり、スターリン賞を3度授与され、人民芸術家にも選ばれ、ソ連作曲家同盟の会員にも選ばれた。 作曲作品とその作曲様式シャポーリンの音楽言語はかなり保守的であり、常に調性の枠組みの中で動いている。作品において重要な役割を果たしているのは、ロシアやウクライナの民族音楽である。シャポーリンは、それらの要素をまさに体系的に作曲に活かす方法を心得ていた。したがってシャポーリンは、明白にロシアのロマン派的な国民楽派の伝統に位置付けられる。シャポーリンの模範はラフマニノフとメトネルであった。抒情的でよどみない旋律を創り出す能力は、とりわけ強烈に表れており、シャポーリンにとって声楽曲の作曲は天性のものであった。しばしばシャポーリンの作品は、人間的で詩的で、心底ロシア的であると呼ばれている。シャポーリンがソ連当局と衝突することは全くなかった。 家族・親族
作品一覧管絃楽曲
声楽曲
ピアノ曲
室内楽曲
文献
脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia