ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ
ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Erzherzog Josef Franz von Österreich, 1895年3月28日 - 1957年9月25日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の皇族・軍人、戦間期ハンガリー王国の政治家・文筆家。ハプスブルク家のハンガリー分家出身。 生涯![]() オーストリア大公ヨーゼフ・アウグストと妻のバイエルン王女アウグステの長男。洗礼名はヨーゼフ・フランツ・レオポルト・アントン・イグナティウス・マリア(Josef Franz Leopold Anton Ignatius Maria)。ハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の曽孫で、母方の祖母ギーゼラを通じてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の曽孫でもある。先祖伝来の所領アルチュートで少年時代を送った。成長するとブダペストのカトリック系中等教育学校に通い、ブダペスト大学に入学し法律学を専攻した。最終的にはハンガリー軍のエリート制服組士官養成校ルドヴィカ軍事アカデミーで学んだ。 1915年、20歳で志願兵となり二重帝国陸軍第7驃騎兵連隊「ヴィルヘルム2世」所属の士官候補生として従軍。第一次世界大戦中の数々の戦いに参加し、アルトゥール・アルツ・フォン・シュトラウセンブルク、スヴェトザル・ボロイェヴィッチ両元帥の司令部付き将校を務めた。その勇敢さを認められて騎兵大尉に昇進する。終戦時はハンガリー国内に駐屯しており、そのまま故郷アルチュートに戻る。 1919年、ハンガリー革命の結果ソヴィエト革命政権が誕生すると、政権によって保守派勢力に対する人質として拘束された。そして捕虜収容所に抑留され、ソヴィエト政府から「人民の敵」の罪名を着せられ死刑を宣告された。しかし、革命政権に対するイギリス王ジョージ5世の働きかけにより、1919年7月に釈放される。ソヴィエト政権崩壊後、再びブダペスト大学に通って法律の勉強を続け、1923年に法学博士号を取得する。1927年から1930年にかけ、ブダペスト工科経済大学で経済学を学び、1930年6月16日、経済学博士号をも取得している。 1924年10月4日、ジビレノルトで、元ザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世の末娘アンナと結婚した。1927年から1945年まで、ハンガリー議会上院議員を務めたほか、戦間期のハンガリーにおける数多くの要職を提供され、高い尊敬を集めた。1927年からハンガリー・ペテーフィ文学協会の名誉会員にも名を連ねた。高い教養を積んだ人物として、文化活動にも関心が強く、いくつかの歴史書・詩集を執筆し、画家としても優れた才能を見せた。 1944年末、ナチス・ドイツに追従する矢十字党が政権を握ると、家族とともに国外に亡命。はじめ叔母の嫁ぎ先トゥルン・ウント・タクシス侯爵家の客としてレーゲンスブルクに滞在し、1948年ポルトガルに移ってポルトに居を構えた。ハンガリーは再び共産主義者の支配下に入って人民共和国政府が成立し、旧皇族たちが帰国できる政情ではなくなった。ヨーゼフ・フランツは1957年にポルトガルで死去した。遺体はドイツに移送され、シュタルンベルク湖の畔の町フェルダーフィンクの墓地に埋葬された。冷戦終結後の1992年、彼の遺体は故国ハンガリーにある一族の墓所・宮中伯家納骨堂(Palatinsgruft)に改葬された。 子女![]() 妻との間に8人の子女をもうけた。
著書
脚注
参考文献
外部リンク
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