ラファエーレ・カスネディ
ラファエーレ・カスネディ(Filippo Tobia Raffaele Casnedi、1822年9月26日 - 1892年12月29日)は、イタリアの画家である。ミラノなどで働き、宗教画や風俗画を描いた。 略歴イタリア北部、ロンバルディアのドゥメンツァで生まれた。ロンバルディアの貴族の出身で、兄弟の中には1870年のイタリア王国軍のローマ占領時に狙撃兵部隊(ベルサリエリ)を率いて初めてローマ市内に入ったパラメーデ・カスネディ(Palamede Casnedi)がいる[1][2][3]。 ラファエーレ・カスネディは子供時代から、教会や墓地でも絵を描いてばかりいて、家族のホテル経営のためにミラノに移ったが、1840年に家業を継ぐのを止めてミラノのブレラ美術アカデミーに入学した。人物画家のジュゼッペ・ソニ(Giuseppe Sogni: 1795–1874)や歴史画家のルイージ・サバテッリに学んだ。学生である時代にソニとサバテッリとともに、ノヴァーラのサン・ピエトロ教会(chiese di San Pietro,)とヴァルマドレーラのサンタントーニオ・アバーテ教会(chiese diSant'Antonio Abate)のフレスコ画の制作に加わった[2]。1846年にモルターラの市立劇場のロビーのメダリオンに装飾画を描いた。アカデミーの学生として、いくつかの賞を受賞し、1850年にアカデミーでの修行を終えた[2][3][4][5]。 1851年に、ローマで、滞在施設と仕事が与えられる、コンクールに優勝し、ローマに留学し、ローマではジョヴァンニ・コスタ(1826-1903))と友人になった。ローマやローマの北のサビーナ(Sabina)と呼ばれる地域で働き、顧客から注文を受けて教会の祭壇画や壁画を描き、展覧会用の絵も描いた。1855年まで、奨学金が与えられ、ローマに滞在した[2][3][5]。 ミラノに戻ると1855年のブレラ美術展で、新しいスタイルの作品を発表したが、その後も伝統的な宗教画を描き続けた。1856年からブレラ美術アカデミーの人物画の非常勤教授になった。1855年10月20日にミラノの貴族の娘と結婚し、ミラノにスタジオを開いた[2][3]。 1856年から1860年まで、ミラノ県のローの修道会(Oblati dei Santi Ambrogio e Carlo)のために働き、1860年頃、コモ湖畔のトレメッツォにある個人邸の礼拝堂の装飾画を描いた。 1860年に、ブレラ美術アカデミーの正教授となり、亡くなる年までその職を務めた。カスネディが教えた学生には、ピエトロ・ブーヴィエ(Pietro Bouvier: 1839-1927)や、フランチェスコ・ディディオーニ(1839-1895)、アンジェロ・モルベリ(1853-1919)、ジョヴァンニ・ソトコルノーラ(1855-1917)らがいる[2][3][6]。 1861年のフィレンツェ博覧会では、写実的なロンバルディアの農民の女性やローマの女性を描いた風俗画を出展した。1861年から1863年の2年間、、同僚のジュゼッペ・ベルティーニとミラノのスカラ座の緞帳のデザインに関わった。イタリアの統一後は歴史画も描いた。 1879年にイタリア王冠勲章(Ordine della Corona d'Italia)を受勲した[7]。 1892年12月29日にミラノで死去した。 作品
脚注
参考文献
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