ラルフ・ヴァーニー (初代ヴァーニー伯爵)初代ヴァーニー伯爵ラルフ・ヴァーニー(英語: Ralph Verney, 1st Earl Verney、1683年3月18日洗礼 – 1752年10月4日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族。はじめはトーリー党所属だったが、後にホイッグ党に鞍替えした。 生涯初代ファーマナ子爵ジョン・ヴァーニーと1人目の妻エリザベス・パルマー(Elizabeth Palmer、1665年頃 – 1686年5月20日、ラルフ・パルマーの娘)の息子としてリトル・チェルシーで生まれ、1683年3月18日にケンジントンで洗礼を受けた[1]。1695年頃から1700年までハックニーの学校で教育を受けた後[2]、1700年10月12日にオックスフォード大学マートン・カレッジに入学した[3]。その後、数年間ミドル・テンプルを通ったが、正式には入学しなかったという[2]。1717年6月23日に父が死去すると、ファーマナ子爵の爵位を継承した[1]。 1717年の補欠選挙でアマーシャム選挙区から出馬して当選、1719年の便宜的国教徒禁止法廃止法案と貴族法案(Peerage Bill)でトーリー党の一員として反対票を投じた[2]。1722年イギリス総選挙で再選したが、1727年イギリス総選挙と1734年イギリス総選挙には出馬しなかった[2]。その後、ウェンドーヴァーの不動産を購入しはじめ、1741年イギリス総選挙でウェンドーヴァー選挙区で当選できるまでに影響力をつけた[2]。以降は与党側で投票して[2]、1743年3月22日にヴァーニー伯爵に叙された[1]。ウェンドーヴァーでの投資も続き、第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァルが1749年頃から1750年まで行った選挙区調査ではヴァーニーがウェンドーヴァー選挙区の2議席ともに掌握しているとされた[4]。 1752年10月4日にリトル・チェルシーで死去、20日にミドル・クレイドンで埋葬された[1]。息子ラルフが爵位を継承した[1]。 家族1708年2月24日、キャサリン・パシャル(Catherine Paschall、1748年11月28日没、ヘンリー・パシャルの娘)と結婚[1]、2男2女をもうけた[5]。
出典
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