リチャード・グロバム・ハウ (第2代準男爵)第2代準男爵サー・リチャード・グロバム・ハウ(英語: Sir Richard Grobham Howe, 2nd Baronet[注釈 1]、1621年8月28日 – 1703年5月3日)は、イングランド王国の政治家。ウィルトシャーの地主の1人として、1650年代から1690年代にかけての選挙で当選することが多かったが、議会ではあまり活動的ではなかった[2][3]。 生涯初代準男爵サー・ジョン・ハウと妻ブリジット(Bridget、旧姓リッチ(Rich、1596年ごろ – 1642年6月15日、トマス・リッチの娘)の長男として、1621年8月28日に生まれた[1][4]。1640年3月27日にオックスフォード大学ハート・ホールに、1641年2月24日にリンカーン法曹院に入学した[4][1]。父はイングランド内戦中の1645年5月に王党派から議会派に転身し、120ポンドの罰金を支払って議会派から容認された人物であり、ハウも1648年にグレート・ウィッシュフォード(ウィルトンから約3マイルのところにある地所)を父から与えられた後はウィルトシャーの地方官職に就任するようになり、1650年から1652年までウィルトシャーの治安判事を務めた後、1656年に治安判事に再任、1660年にウィルトシャー民兵隊での職務にも就任した[2]。 第二議会でウィルトシャー選挙区の、第三議会でウィルトン選挙区の代表として議員に選出されたが[2]、1660年イングランド総選挙ではウィルトン市長ウィリアム・ヒューズ(William Hewes)との争いが生じた[5]。このとき、フランシス・スワントンとヒューズの当選宣告には14人の署名があり、地方自治体の印鑑も押されたが、市民借地権所有者7人がスワントンとハウの当選宣告を承認した[5]。議会ではヒューズが多数票を得たと認めたものの、ヒューズに自身の当選を宣告する権限がないとして6月14日にヒューズとハウの当選無効を決定、27日の補欠選挙でハウが全会一致で当選した[5]。この総選挙で選出された1660年仮議会において、ハウの活動は少なく、翌年の総選挙で議席を得られず議員を退任した[2]。 1665年ごろに騎士爵に叙された[3]。1668年にウィルトシャー州長官を務め[4]、1670年にウィルトシャー副統監に就任した[2]。1671年ごろに父が死去すると、準男爵位を継承した[3]。 1675年5月、トマス・シンの推薦を受けてウィルトシャー選挙区の補欠選挙に出馬、ウィルトシャー統監の第4代サマセット公爵ジョン・シーモアもハウの立候補を支持したため、ハウは無投票で当選した[6]。2度目の議員期でも活動が少なかったものの、野党の1人に数えられた[2]。1679年3月イングランド総選挙で再選したが[6]、この総選挙で選出された第1次排除法議会で王位排除法案に反対票を投じたため、同年9月の総選挙で議席を1人目の妻の兄弟にあたる第3代準男爵サー・ウォルター・シンジョンに譲ることを余儀なくされ[2]、自身は家族の影響力が大きいヒンドン選挙区で当選した[7]。1680年にウィルトシャーの治安判事から解任された後[2]、1681年イングランド総選挙でヒンドン選挙区から出馬して再選したが[7]、議会活動は引き続き少なく、1685年イングランド総選挙に出馬せず、議員を退任した[2]。 おそらく1688年6月にウィルトシャー副統監から解任されたが、名誉革命後の1688年10月に再任、1689年ごろにはウィルトシャーの治安判事にも復帰した[2]。1689年イングランド総選挙に出馬しなかったが[2]、1690年イングランド総選挙でウィルトン選挙区から出馬した[8]。息子が一緒に出馬しなかったため、1人で第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートの支持するトーリー党候補2名と対決することになったが、ハウは当選に成功した[8]。3度目の議員期でも活動は少なかったが、ホイッグ党の一員に数えられた[3]。1695年イングランド総選挙に出馬せず、議員を退任した[3]。 1703年5月3日に死去[3]、12日にグレート・ウィッシュフォードで埋葬された[4]。5人の息子のうち、4人に先立たれており、次男リチャード・グロバムが準男爵位と遺産を継承した[3]。 家族1642年までにルーシー・シンジョン(Lucy St. John、1658年3月29日埋葬、初代準男爵サー・ジョン・シンジョンの娘)と結婚、5男4女をもうけた[4]。
アン・ダットン(Anne Dutton、旧姓キング(King)、ロンドン主教ジョン・キングの四女、ジョン・ダットン(1647年1月14日没)の未亡人)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[1][4]。 注釈出典
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