ルイーゼ・フォン・メクレンブルク
ルイーゼ・フォン・メクレンブルク(独:Luise von Mecklenburg[1], 1667年8月28日 - 1721年3月15日)は、デンマーク=ノルウェーの王フレデリク4世の最初の妃。 生涯メクレンブルク=ギュストロー公グスタフ・アドルフとホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク3世の娘マグダレーネ・ジビッレとの間にギュストローで生まれた。 ルイーゼは、メクレンブルク=ギュストローの敬虔で比較的質素な宮廷で育った。11人のきょうだいのうち8人が成人したが、みな女子であった。将来の夫となるデンマーク王太子フレデリク(後のフレデリク4世)がドイツで結婚相手を探していたときに、ルイーゼと出会った[2]。 1695年12月5日、ルイーゼはコペンハーゲンにおいて王太子であったフレデリクと結婚し、1699年に夫の即位に伴いデンマーク王妃となった。2人の塗油の儀式は1700年にフレデリックスボー城の教会で行われた[3]。 ルイーゼは情事を繰り返す夫に悩まされた。生涯の間に、フレデリクは2度貴賤結婚を繰り返した。義母のシャルロッテ・アマーリエとは異なり、ルイーゼはこの状況を受け入れるのが難しく[3]、侮辱であると感じた[2]。ルイーゼは夫を非難したが、それが時として宮廷で恥ずかしい事態を起こした。ルイーゼの深い宗教心は、不幸な結婚生活からの逃避でもあったと考えられている[2]。ルイーゼの死後わずか数日後にフレデリクは貴賤結婚をし、最愛の妻[3]で2番目の貴賤結婚の相手であったアンナ・ソフィー・レーヴェントローとは正式に結婚し、後に王妃とした。 ルイーゼは宮廷の公式行事に出席し王妃としての義務を果たしたが、それ以外の時はひっそりと静かな生活を送った。ルイーゼは夫ほど人気がなかった。後にルイーゼはデンマーク内の3つの領地(ヘルスホルム、ルングテガルド、エベロドガルド)を受け取ったが、自身では管理しなかった[2]。 ルイーゼは、後にクリスチャン6世となる息子クリスチャンと親密で建設的な関係を築いた。クリスチャンもまた強い宗教心を持つようになり、母親と同様にかなり内気な性格となった[4]。 ルイーゼは膨大な書籍のコレクションを残し、現在はコペンハーゲンの王立図書館に保管されている。ほとんどの本は宗教関連のものであった。ルイーゼはドイツ語の本しか持っていなかったため、デンマーク語を話せなかったか、デンマーク語をあまり使おうとしなかったと考えられている[4]。 子女2人の間には5子が生まれたが、うち3子は早世した。
脚注
参考文献
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