ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン
![]() ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン(ドイツ語: Luise Margareta von Preußen, 1860年7月25日 - 1917年3月14日)は、プロイセン王国の王族。プロイセン王子フリードリヒ・カールの四女で、イギリス王子・コノート公アーサーの妃となった。 英語名はルイーズ・マーガレット・オブ・プロシア(Louise Margaret of Prussia)。 全名はドイツ語でルイーゼ・マルガレーテ・アレクサンドラ・ヴィクトリア・アグネス(Luise Margarete Alexandra Viktoria Agnes)、英語ではルイーズ・マーガレット・アレグザンドラ・ヴィクトリア・アグネス(Louise Margaret Alexandra Victoria Agnes)。 家族からはドイツ語の愛称でルイシェン(Louischen)と呼ばれた。 生涯1860年7月25日、フリードリヒ・カールとその妃でアンハルト=デッサウ公レオポルト4世の娘であるマリア・アンナの間に第4子としてポツダム近郊の大理石宮殿で生まれた。父はプロイセン王子カールとその妃マリーの間に生まれた長男で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の甥にあたる。フリードリヒ・カールは普仏戦争に従軍した軍人であった。 1878年にポツダムでコノート公アーサーと出会い、婚約が成立する。姑のヴィクトリア女王はルイーゼ・マルガレーテの両親が不仲であることを心配した[1]が、積極的に反対する理由がないため、この結婚を認めた。 1879年3月13日、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で結婚した。結婚後20年間は、夫の赴任先について各地を転々とし、アーサーがカナダ総督を務めた間も同行していた。夫との間に1男2女をもうけた。
1917年、2年にかけて大流行したインフルエンザにルイーズも感染し、気管支炎を併発して、クラレンス・ハウスで急死した。ウィンザー・フロッグモアにあるイギリス王室の墓所に埋葬された。 脚注外部リンク
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