ルクセンブルク大公
ルクセンブルク大公(ルクセンブルクたいこう、ドイツ語: Großherzog von Luxemburg、ルクセンブルク語: Groussherzog vu Lëtzebuerg、フランス語: Grand-duc de Luxembourg)は、ルクセンブルク大公国の君主(大公)で国家元首である。 概要1815年の成立当初、ルクセンブルク大公国はオラニエ=ナッサウ家のオランダ国王が大公を兼ねる同君連合下にあり、事実上ネーデルラント連合王国(現在のベルギーを含む)の州の一つだった。しかし、1839年にベルギーが独立した際、オランダ本土と分断された上に大公国の西半分がベルギー領(リュクサンブール州)として分割された。以後、独立国家としてのルクセンブルクの体制作りが始まった。 1890年に第3代のオランダ国王兼ルクセンブルク大公ウィレム3世(ギヨーム3世)が没した際、オランダ王位はウィルヘルミナ女王が継いだが、ルクセンブルクには女子の相続権に関する規定がなかったため、サリカ法を採るナッサウ家の家法に基づいてナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフ(オランダ総督・オラニエ公ウィレム4世の玄孫、プロイセン王国に併合されたナッサウ公国の元君主)が大公に即位することとなり、オランダとの同君連合が解消された。 ところが、アドルフの息子ギヨーム4世の代になって、ナッソー=ヴェイユブール家(ナッサウ=ヴァイルブルク家)でも男子の継承者が途絶えた。結局、女子の継承を可能とする法改正が行われ、マリー=アデライード、シャルロットの姉妹が相次いで大公位を継承した。シャルロットは家名をリュクサンブール家(ルクセンブルク家)と変えたが、ナッソー=ヴェイユブールの家名は現在でも用いられる。 ルクセンブルクは立憲君主制が確立されているものの、大公は儀礼的な職務のみでなく、内閣とともに行政権を執行する職能を与えられている。 憲法上の役割安楽死を合法化する法律にアンリが裁可を拒否したことによって2008年12月に憲法(第34条)が改正された後、法律はもはや大公の正式な裁可(「承認」を意味する)を必要としなくなったが[2]、最高責任者として法律を公布するという大公の職務は残っている。 報酬大公は給与を受け取らないが、王室は年間30万金フラン(28万1千ユーロ)を大公の職務のために受け取る[3]。2017年、ルクセンブルク予算は大公の家計費のために1千10万ユーロを計上した[4]。 正式な称号大公の伝統的な尊称は「神の恩寵による、ルクセンブルク大公、ナッサウ公、ライン宮中伯、ザイン、ケーニヒシュタイン、カッツェンエルンボーゲン、およびディーツ伯、ハンマーシュタイン城伯、マールベルク、ヴィースバーデン、イトシュタイン、メレンベルク、リンブルク、およびエップシュタインの領主」である。しかしながら、多くの称号はサリカ相続の厳格な規定にかかわらず保持されており、ルクセンブルク大公とナッサウ公を除いては、そのほとんどが全く使用されていないことに注意しなければならない。 大公の一覧→「ルクセンブルク大公位継承順位」も参照
ナッソー=ヴェイユブール家の大公はフランス語名で呼ぶのが通例となっているが、ギヨーム4世のみは、オランダ王を兼ねたウィレム1世から3世にならってオランダ語名で呼ぶ場合もある。ここでは全員についてフランス語名で記した上で、オランダ語名を括弧内に併記しておく。
系図
脚注出典
関連項目 |
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