ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン
ルートヴィヒ・ザムソン・ハインリッヒ・アルトゥール・フライヘア[注釈 1]・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザムハウゼン (Ludwig Samson Heinrich Arthur Freiherr von und zu der Tann-Rathsamhausen、1815年6月18日-1881年4月26日) はバイエルン王国の貴族、軍人。最終階級は歩兵大将。 幼少期ルートヴィヒ・フォン・デア・タンはワーテルローの戦いと同日にダルムシュタットで生まれた。フォン・デア・タン家はバイエルンの他、アルザス地方やライン地方に分家がある貴族の家系であり、母もアルザス貴族フォン・ラートザムハウゼン男爵家 (Freiherr von Rathsamhausen) の出であった。アルトゥールの名はバイエルン王ルートヴィヒ1世から賜ったもので、ワーテルローの戦いの日に生まれたことから、ナポレオンを打ち破ったウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーにちなんで名付けられた。入念な教育を施して育てられ、1827年にはバイエルン王国の宮廷に出入りするようになるなど、将来を期待される少年であった。1833年には砲兵部隊に入隊し、数年後には参謀本部付となった。彼はヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア帝国軍のイタリア戦役に帯同した他、チュニジアと戦うフランス軍遠征部隊に参加してアルジェに出向いた[1]。 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争帰国後はバイエルン王太子マクシミリアン (後のマクシミリアン2世) と親交を結び、1848年には少佐に昇進した。同年に開戦した第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国軽歩兵軍団の指揮官として際立った活躍を見せた。第1次出兵から帰還すると、プロイセン王から赤鷲勲章、バイエルン王からはマックス・ヨーゼフ軍事勲章を授与され、中佐に昇進した。1849年にはバイエルン王国軍の前線部隊の参謀長を務め、 デュッペル戦線で活躍した。その後、ハンガリー革命を鎮圧するユリウス・ヤーコプ・フォン・ハイナウの司令部を訪ねてからシュレースヴィヒ=ホルシュタインに戻り、イトシュテット戦役を率いるカール・ヴィルヘルム・フォン・ヴィリセンの参謀長を務めた[1]。 普墺戦争その後、プロイセン ‐ オーストリア間に戦争の気配が漂い始めたことから、フォン・デア・タンはバイエルンに呼び戻された。これは結局1850年11月のオルミュッツ協定でプロイセンが小ドイツ主義に基づくドイツ統一を断念させられるという屈辱的な結果に終わった。1866年までは活躍の機会もなく、1851年に大佐、1855年に少将、1861年に中将と慣例通りに昇進した。この間、マクシミリアン2世の副官として近侍し続けた。1866年の普墺戦争でバイエルン王国はオーストリア帝国側につき、フォン・デア・タンは南ドイツ諸邦軍を指揮したカール・フォン・バイエルン王子の参謀長を務めた。精強なプロイセン軍の前に南ドイツ諸邦は不利な戦いを強いられたことから、参謀長であるフォン・デア・タンにもマスコミから激しい非難が浴びせられたが、そもそも南ドイツ諸邦は戦備が整っておらず、寄り合い所帯で指揮系統も非効率であったこと、兵士の中に「これはドイツ連邦内の主導権争いに過ぎない」という意識が流れていたこともあって、最初から南ドイツ諸邦の不利は決まっていたようなものであった[1]。 普仏戦争フォン・デア・タンは王の近侍という幸運もあって1869年に歩兵大将に昇進したが、1866年の敗北による失意がその胸の内から去ることはなく、42歳で既に白髪となり健康も害していた。この間、1868年には母方の家名を合わせて名乗ることを許され、フォン・デア・タン=ラートザムハウゼンを家名とした。1869年、バイエルン王国第1軍団の司令官に任じられ、1870年‐1871年の普仏戦争ではこの軍団を指揮して勇戦し、ドイツ軍随一の指揮官として賞賛を浴びた。特にウェルトの会戦とセダンの戦いでの戦いぶりは目覚ましいものであった。秋にはロワール川流域の独立指揮官に転任してフランス軍のルイ・ドーレ・ド・パラディーヌ将軍と戦い、オルレアンを陥落させた。そのすぐ後にクルミエの戦いで数に勝るフランス軍に敗北したものの、援軍を得てメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の下でオルレアン周辺での戦いに勝利した[1]。 終戦後、改めてバイエルン王国第1軍団の最高司令官に任命され、1881年にメラーノで亡くなるまでその地位にあった。バイエルン王国からはバイエルン軍事勲章大十字章、プロイセン王からは1級鉄十字章とプール・ル・メリット勲章を授与された。 1878年、ドイツ帝国皇帝はフォン・デア・タンにプロイセン歩兵連隊名誉大佐の称号とともに終身年金を与え、ストラスブールに新たに設けた砦の1つにその名を冠した[1]。 記念海軍艦艇や陸軍部隊に彼の名を冠したものがある。
勲章等
出典
注釈 |
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