レイモンド・ド・モンモランシー (第3代フランクフォート・ド・モンモランシー子爵)第3代フランクフォート・ド・モンモランシー子爵レイモンド・ハーヴィー・ド・モンモランシー(Raymond Hervey de Montmorency, 3rd Viscount Frankfort de Montmorency KCB、1835年9月21日 – 1902年5月7日)は、イギリス陸軍の軍人、アイルランド貴族。軍人としての最終階級は少将[1]。保守党に属し、アイルランド貴族代表議員を務めた[1]。 生涯第2代フランクフォート・ド・モンモランシー子爵ロッジ・ド・モンモランシーと妻ジョージアナ・フレデリカ(1808年ごろ – 1885年4月16日、ピーター・フィッツギボン・ヘンチーの娘)の息子として、1835年9月21日にエセックス州セイドン・ボイスで生まれた[1]。両親は1843年に別居した[1]。1848年から1852年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。 1854年8月30日にエンサイン(歩兵少尉)として第33歩兵連隊に入隊、1855年1月12日に中尉に昇進した[2]。クリミア戦争ではセヴァストポリ包囲戦、レダン要塞の戦いに参戦し、イギリスのクリミア・メダル、オスマン帝国のクリミア・メダル、サルデーニャ王国のクリミア・メダルをすべて授与された[2]。1857年から1858年にかけてのインド大反乱鎮圧にも参戦して、インド大反乱メダルを授与された[2]。 1861年3月29日に大尉に昇進した後、第32歩兵連隊に転じ、1861年12月6日から1864年12月31日まで親族にあたるエドワード・バジル・ブルック(Edward Basil Brooke)少将のエー=ド=カン(副官)として小アンティル諸島のウィンドワード諸島、リーワード諸島に駐留した[2]。1865年6月4日にサー・ジョン・ミシェルの副官に転じ、イギリス領北アメリカに駐留した[2]。1866年にはフェニアン襲撃への対処に関わり、Canada General Service Medalを授与された[2]。 ![]() この時期にエチオピア帝国を旅行し、ロバート・ネイピアによるエチオピア遠征に志願兵として参戦した[2]。ド・モンモランシーはアンバ・マリアムまで遠征軍に随行し、アビシニア戦争メダルを授与された[2]。その後、1876年に中佐、1881年に大佐に昇進した[1]。 マフディー戦争には1886年から1887年にかけての戦役で参戦し、ケディブの星を授与された[2]。1887年にアレクサンドリアで現地限りの階級として少将に昇進し、1889年11月30日に正式に昇進した[2]。 1889年12月25日に父が死去すると、フランクフォート・ド・モンモランシー子爵位を継承した[1]。爵位継承以降も軍務を続け、1890年から1895年までベンガル地方、1895年から1897年までダブリンに駐留した後、1897年9月21日、62歳の誕生日とともに軍務から引退した[2]。1898年5月21日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1]。1900年6月5日にアイルランド貴族代表議員に当選、1902年に死去するまで務めた[3]。貴族院では保守党に属した[1]。 1902年5月7日にセント・ジェームズのベリー・ストリート30号で卒中により死去、12日にドーセット州デューリッシュで埋葬された[1]。長男に先立たれたため、次男ウィロビー・ジョン・ホレスが爵位を継承した[1]。 家族1866年4月25日、モントリオールでレイチェル・メアリー・ラムリー・ゴドルフィン・ミシェル(Rachel Mary Lumley Godolphin Michel、1936年3月10日没[4]、サー・ジョン・ミシェルの娘)と結婚[1]、2男3女をもうけた[5]。
出典
関連文献
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