レジー・アバークロンビー
レジー・アバークロンビー(Reginald Damascus Abercrombie, 1981年7月15日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州コロンバス出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 経歴プロ入りとドジャース傘下時代1999年のMLBドラフト23巡目でロサンゼルス・ドジャースから指名を受け、翌2000年にドジャースに入団する。同年はマイナーリーグのルーキー・アドバンスド級パイオニアリーグでプレイした。54試合の出場はチームで8番目だったにもかかわらず、チーム最多・リーグ2位となる32盗塁を記録するなど、存在感を示した。 2001年は階級を二つ上げ、クラスA級サウス・アトランティックリーグで125試合に出場した。チームで唯一となる二桁本塁打(10本)を記録するなど、右翼手・中堅手のレギュラーとして活躍した。この年のチームメイトに、後にMLBで1,000安打・100本塁打などの実績を挙げるシェーン・ビクトリーノや、2009年のWBCにドミニカ共和国代表として出場したウィリー・アイバーらがいた。 2002年は更に階級を上げ、アドバンスドA級フロリダ・ステートリーグで主にプレイした。132試合に出場し、いずれもチーム最多となる145安打(リーグ3位)・13三塁打(リーグ1位)・41盗塁(リーグ2位)といった数字を記録した。一方で、三振数158は2位に36個差をつけてのリーグ1位だった。守備では前年同様右翼手を中心にこなしたが、中堅手の守備にも就いた。アイバーとはこの年もチームメイトだった。また、AA級での試合にも1試合出場した。 2003年はAA級サザンリーグに所属するジャクソンビル・サンズで年間通じてプレイし、チームトップの15本塁打(リーグ7位タイ)・28盗塁(リーグ6位)を記録するなど、AA級でも数字を残した。ただ、この年もリーグ1位の164三振を喫し、四球の数はその10分の1以下となる16に留まるなど、課題も残した。 ダイヤモンドバックス傘下時代2004年、シーズン途中の7月31日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍する。この年はマイナーリーグの3つのチームで合計104試合に出場し、打率.252・12本塁打・51打点・27盗塁という成績だった。 マーリンズ時代2005年4月6日にフロリダ・マーリンズへ移籍する。この年は4月から7月までアドバンスドA級で、7月から9月までAA級でプレイし、125試合で25本塁打を記録。長打率でも自己最高となる.484をマークした。 2006年はスプリングトレーニングで打率.358と好調だったこともあり、AAA級をパスしてMLBデビューを果たすこととなる。4月4日にミニッツメイド・パークで行われた開幕2戦目のヒューストン・アストロズ戦に8番・中堅手で先発出場し、4回表の第2打席にアンディ・ペティットからメジャー初安打を記録した。9回表にも左翼へ安打を放ち、MLBでのデビュー戦は5打数2安打だった。その後当たりが止まり、4月5日から4月18日のシンシナティ・レッズ戦の第2打席にかけて22打数連続無安打という不振に陥るが、この試合の第3打席で中堅への2点適時打を放ち、2週間振りの安打を記録するとともに、メジャー初打点も記録した。翌19日のレッズ戦では6回表にメジャー初本塁打を、5月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦ではメジャー初盗塁も記録した。5月は打率.272・10打点・出塁率.350とまずまずの数字を残したが、6月は20試合に出場して安打を記録したのが3試合に留まるなど、月間打率.129と再び不振に陥り、その後も調子が大幅に上向くことはなかった。7月下旬以降はスタメンを務める機会も減少し、9月の打席数は僅かに4だった。年間を通じてMLBに在籍し、111試合に出場したが、5本塁打・6盗塁と、マイナーリーグ時代の持ち味を発揮出来たとは言い難い結果に終わった。 2007年は開幕をAAA級で迎える。5月にMLBへ復帰し、当初はスタメンを任されるが、打率は2割台前半をさまよい、6月には再びAAA級へ降格となった。9月にMLBへ再度昇格すると、主に代打として11打席に立つも1安打に終わり、シーズンでは35試合・打率.197と、前年と比べて軒並み数字を落としてしまった。一方、AAA級では93試合の出場ながらリーグ最多の41盗塁を記録し、打つ方でも打率.323(チーム1位)・17本塁打などの数字を残した。 アストロズ時代2007年10月11日、ヒューストン・アストロズへ移籍。 2008年も開幕時点ではマイナーリーグにおり、MLBの試合に初出場したのは6月7日だった。7月に一度AAA級へ降格するなど、8月終了時点では打率.200・出塁率.219といった厳しい数字が並んでいたが、9月に入ると一転好調になり、12試合・25打数で打率.440・出塁率.481を記録した。また、この年にMLBで決めた5盗塁は全て9月に入ってから成功したものだった。結果として、シーズンでは34試合・打率.309という数字を残したが、打席数は前年よりも更に減少した。シーズン終了後の12月に、アストロズと再契約を結んだ。 2009年、AAA級のパシフィックコーストリーグに所属するラウンドロック・エクスプレスで、主に右翼手レギュラーとして134試合に出場した。しかし、チームトップの26盗塁を記録した以外は目立った数字を残すことが出来ず、4年振りにMLBでの試合出場なしに終わった。11月9日にフリーエージェントとなった。 アストロズ退団後2010年は独立リーグのアメリカン・アソシエーションに所属するスーフォールズ・ファイティングフェザンツでプレイし、打率.328、そしていずれもリーグ3位となる22本塁打・90打点・34盗塁を記録。チームの地区優勝に大きく貢献した。 2011年3月にはメキシカンリーグでも試合に出場したが、5月以降は再びファイティングフェザンツでプレイした。打率.304・17本塁打・66打点と、前年より数字は落としたが、33盗塁はリーグ2位タイだった。 2012年3月から7月にかけて、メキシカンリーグ南地区のプエブラ・パロッツで82試合に出場。5月末には5試合連続・21打数無安打という時期もあったが、総じてコンスタントに結果を残し、いずれもチームトップの21本塁打・21盗塁を記録して実力を示した。7月30日に再度独立リーグのファイティングフェザンツに復帰し、9月3日までプレイ。31試合の出場ながら打率.336・31打点と、こちらでも打撃は好調だった。 2013年3月から4月にかけてはパロッツに、4月から6月にかけてはパロッツと同じくメキシカンリーグ南地区に所属するタバスコ・キャトルメンに在籍した。パロッツでは19試合で打率.263と今一つの結果だったが、キャトルメンに入団後は7試合連続安打を放ち、この間に打率.500・4本塁打・13打点と数字を荒稼ぎした。その後はまた低調な時期が続いたこともあり、2チームでの合計では58試合・打率.288・11本塁打・47打点という成績だった。その後、前年と同じく7月30日に、ファイティングフェザンツから名称を変更したカナリーズに復帰。独立リーグで約1か月間プレイした。カナリーズでの成績は、30試合・打率.298・7本塁打・26打点だった。 2014年4月はメキシカンリーグ北地区のモンクローバ・スティーラーズでプレイ。最初の9試合では、全ての試合で打点を上げるなど打率.390・4本塁打・16打点と大当たりだったが、その後は調子を落として打点も稼げず、トータルでは16試合・打率.314・16打点という成績だった。OPSは1.053という高い数字を記録した。5月に独立リーグのアメリカン・アソシエーションに所属するウィニペグ・ゴールドアイズに加入。100試合に出場し、ともにチームトップの19本塁打・74打点を記録。チームの得点源として結果を残した。 2015年はカナディアン・アメリカン・リーグのサセックスカウンティー・マイナーズと契約。7月18日にウィニペグ・ゴールドアイズと再契約し、9月8日にはトレードでアトランティックリーグのサザンメリーランド・ブルークラブスに移籍した。 2016年からウィニペグ・ゴールドアイズに復帰。 2019年限りで引退を発表した。 その他守備に関しては、外野の3ポジションであるレフト・センター・ライトの全ての経験を有するが、マイナーリーグではライトを最も多く守っている。一方で、MLBではセンターの守備に就いた回数が最も多く、2010年に独立リーグやメキシカンリーグでプレイを始めてからも、出場したほとんどの試合でセンターの守備を務めている。 2006年にマーリンズでメジャーデビューを果たしたが、この年にマーリンズでメジャーデビューした選手の中には、この年の新人王に輝き、2009年に首位打者を獲得したハンリー・ラミレス、2010年に最優秀防御率を獲得したジョシュ・ジョンソン、強打の二塁手ダン・アグラなど、錚々たる顔ぶれが揃っていた。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
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