初代ロジアン侯爵の肖像画
初代ロジアン侯爵 ロバート・カー (英語 : Robert Kerr, 1st Marquess of Lothian ,PC 、1636年3月8日 - 1703年2月15日)は、イギリスの貴族 。1661年まではカー卿 を、同年から1675年まではニューボトル卿 をそれぞれ儀礼称号 として用いた。同年から1701年まではアンクラム伯爵 を名乗ったのち、ロジアン侯爵 に叙せられた。
生涯
初代ロジアン伯爵 (英語版 ) とアン・カー(Anne Kerr、第2代ロジアン伯爵 (英語版 ) の長女)との長男としてエディンバラシャー 、ニューボトル (英語版 ) に生まれた[ 1] [ 2] 。その後の1651年から1657年にかけてはスコットランド を離れて、ライデン大学 に学んだのち、ソミュール 、アンジェ 、パリ を渡り歩いた[ 3] 。1658年に親族がその相続をめぐって係争中のロクスバラ伯爵位 [ 註釈 1] の優先継承権を主張したが、不成功に終わった[ 4] [ 5] 。また、父のロジアン伯が1661年にロクスバラ伯位の継承権を失うと、従来の儀礼称号(カー卿)の使用をとりやめて、新たにニューボトル卿の称号を用いた[ 註釈 2] [ 6] 。
その後はスコットランド辺境 警備任務に従事したほか、第三次英蘭戦争 に志願して1673年まで従軍した[ 3] 。1675年に父よりロジアン伯爵を継承した[ 3] [ 4] 。ロバートはやがて健康を害したことから、1679年の秋から翌年の夏までパリやモンペリエ で静養した[ 3] 。1686年に枢密顧問官に就任した[ 1] [ 3] 。彼は名誉革命 を支持して、スコットランド臨時議会 (英語版 ) にも自身の議席を保持した[ 2] 。1689年には民事控訴院主席判事 (英語版 ) に任命されてその死までその地位にあったほか、ウィリアム3世 より枢密顧問官に再任されている[ 3] 。翌年の1690年に親族チャールズ・カー (英語版 ) よりアンクラム伯爵を継承した[ 1] [ 3] [ 5] [ 7] 。
1692年に国教会総会勅使 (英語版 ) に就任すると国王と国教会 の板挟みとなり、翌年には体調を崩してバース で療養する羽目となった[ 3] 。加えて、1695年には「ロバートを他の伯爵よりも下位の席次として扱うべきか」の議会投票が行われるといった屈辱を味わったが[ 3] 、1701年にロジアン侯爵 に叙されてその名誉回復を果たした[ 1] [ 3] [ 4] [ 7] 。また、翌年にはイングランド との合同交渉委員となったが、1703年に合同 を見ぬまま急死した[ 3] [ 4] [ 5] 。爵位は長男ウィリアム が継承した[ 1] [ 4] [ 7] 。
爵位
1675年に父ウィリアム・カー (英語版 ) の死去に伴って、以下の爵位を継承した[ 8] 。
第2代ニューボトル卿 (2nd Lord Newbottle) (1631年10月31日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
1690年にチャールズ・カー (英語版 ) の死去に伴って、以下の爵位を継承した[ 9] 。
第3代アンクラム伯爵 (3rd Earl of Ancram) (1633年 6月24日 の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
第3代ニスベット、ランヌートン及びドルフィンストンのカー卿 (3rd Lord Kerr of Nisbet, Longnewtoun and Dolphinstoun) (1633年6月24日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
1701年 6月23日 に以下の爵位を新規に叙された[ 1] 。
初代ロジアン侯爵 (1st Marquess of Lothian) (勅許状によるスコットランド貴族爵位)
初代ブリーン子爵 (1st Viscount of Briene) (勅許状によるスコットランド貴族爵位)
初代ニューボトル、オクスナム、ジェドバラ、ドルフィンストン及びニスベットのカー卿 (13th Lord Ker of Newbottle, Oxnam, Jedburgh, Dolphinstoun and Nisbet) (勅許状によるスコットランド貴族爵位)
家族
1660年2月にジーン・キャンベル(Jean Campbell、1712年7月31日没、初代アーガイル侯爵 の次女)と結婚して、10人の子供をもうけた[ 1] 。
第8子(四女)マーガレット(1678年生)- 夭折
第9子(五男)ジェームズ(1679年生)- 生涯未婚のまま死去。
第10子(五女)アナベラ(1682年生)- 夭折
脚注
註釈
^ ロクスバラ伯爵位 は1616年 創設のスコットランド貴族 爵位[ 2] 。初代伯には男子がおらず、その生前に女系子孫のウィリアム・カー への相続を指定して1650年に死去した[ 2] 。しかし、ウィリアムの爵位継承は1661年にまでもつれ込んだ。
^ スコットランド議会は1661年に係争中のロクスバラ伯爵位に関して、請願者ウィリアム・カー への継承を認めた[ 2] 。そのため、従来用いてきた儀礼称号(カー卿)をウィリアムとその一族に返還している。
出典
^ a b c d e f g “Lothian, Marquess of (S, 1701) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年8月9日閲覧。
^ a b c d e “Roxburghe, Earl of (S, 1616) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年8月10日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k Handley, Stuart. “Kerr, William, second marquess of Lothian”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/15469 . (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e Cokayne, George Edward , ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 147– 148.
^ a b c Paul, Sir James Balfour (1908). The Scots Peerage: Innermeath-Mar . D. Douglas. pp. 475–478. https://books.google.com/books?id=ErEEAAAAIAAJ&pg=PA475
^ “Records of the Parliaments of Scotland ”. www.rps.ac.uk . 2020年8月9日閲覧。
^ a b c Arthur G.M. Hesilrige. “Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc : Free Download, Borrow, and Streaming ” (英語). Internet Archive . p. 587. 2020年8月10日閲覧。
^ “Lothian, Earl of (S, 1631) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年8月10日閲覧。
^ “Ancram, Earl of (S, 1633) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年8月10日閲覧。