ロマノフ家
ロマノフ家(ロマノフけ、ロシア語: Романовы、発音 [rɐˈmanəvɨ])は、ロシア帝国を統治していた帝室。 歴史
実態![]() ロマノフ家は、古くからロシア帝国に於ける有力貴族であったというが明らかではない。一説によるとこの家系のロシアにおける起源は、13世紀にプロイセン地方でドイツ騎士団による残酷な攻撃から逃れてロシアの地にたどり着いた古プロイセン人のグランダ・カンビラ(Glanda Kambila)という名の公であったと言われる。ただし、明らかであるとされている先祖は14世紀にモスクワ大公のセミョーンに仕えていたアンドレイ・カビラ(Andrei Kobyla)という低位の貴族で、カビラという姓はロバの意味であり、カビラ家はみな馬やその他の家畜にちなんだあだ名をつけられていることからモスクワ大公家の馬丁の家系であったという推測がされている。ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にモスクワ大公にして「全ルーシのツァーリ」だったリューリク家の外戚になった。イヴァン4世(雷帝)死後、リューリク家断絶によるロシアの混迷(動乱時代)、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴された。尚、初代ミハイル・ロマノフは父方祖母のヴァルヴァラ・イヴァノヴナ・ホヴリナがリューリク家の分家の出身であったため、女系かつ遠縁だが一応、ロマノフ家はリューリク家の血統をひいている。 帝政初期は有力貴族によって政治を牛耳られたが、第2代ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立する。1666年のニーコン総主教追放がその顕著なしるしとなった。主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。 また、この時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもあった(絶対君主制)。なおロマノフ家の嫡系はピョートル2世の代で絶え、1762年にホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えられた外孫のピョートル3世が皇位を継承している(以後をホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家と呼ぶこともある)。ピョートル3世の皇后であったが夫を廃して自ら即位したエカチェリーナ2世も生粋のドイツ人であり、以後もロシアの帝室はドイツの血統が濃密となった(後にドイツ人との婚姻で、帝室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入した)。 ピョートル大帝の時代以降、ロシアではスラヴ派と西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼした。歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と南下政策であったが、19世紀に欧州列強として台頭すると、ロシア帝国も帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになった。特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めた。これはオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の原因ともなった。一方、帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなった(ロシアのくびき)。 この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きている。1905年には血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切ったが、帝国の動揺を抑えることはできず、第一次世界大戦の最中の1917年にロシア革命が起こりニコライ2世は退位し帝国は終焉した。 2007年、ロシア国民の一部がロマノフ王朝の皇帝(ツァーリ)復活を望んでいる事との報道がなされたとされる[要出典]。(ロマノフ家の末裔の皇帝即位に賛成が35%、反対が7%)。理由は現在のロシアの格差社会の広がりが問題と言われている。2008年10月1日、ロシア最高裁判所はロマノフ家をボリシェビキ政権による弾圧の犠牲者であったとして正式に名誉を回復させた。 歴代当主(歴代ロシア皇帝)![]()
ロシア革命以後のロマノフ家当主現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。
系図
関連作品アナスタシア・ニコラエヴナ#日本での主な関連作品、及びマリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)#彼女をモデルにした人物が登場する作品も参照の事。 実録系作品
フィクション作品
脚注注釈出典参考文献
関連項目外部リンク
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