ワーナー・マドリガル
ワーナー・アントニオ・マドリガル(Warner Antonio Madrigal , 1984年3月21日 - )は、ドミニカ共和国・サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身のプロ野球選手(投手)。 経歴プロ入りとエンゼルス傘下時代2001年7月21日にアマチュア・フリーエージェントでアナハイム・エンゼルスと契約を結ぶ。当時は外野手だった。 2005年はA級シーダーラピッズ・カーネルズでプレーし、111試合に出場して打率.247・15本塁打・53打点・6盗塁の成績を残した。 2006年途中から投手に転向。ルーキー級アリゾナリーグ・エンゼルスでプレーし、12試合に登板して2勝1敗5セーブ・防御率3.75・13奪三振の成績を残した。 2007年はA級シーダーラピッズでプレーし、54試合に登板して5勝4敗20セーブ・防御率2.07・75奪三振の成績を残した。10月29日にFAとなった。 レンジャーズ時代2007年11月18日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ[1]。 2008年はAA級フリスコ・ラフライダーズで開幕を迎え、5月にAAA級オクラホマシティ・レッドホークスへ昇格。17試合に登板して0勝0敗4セーブ・防御率3.98・25奪三振の成績を残した。6月28日にメジャー初昇格を果たし[2]、7月2日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビュー。 2009年はAAA級とメジャーを行き来し、メジャーでは13試合の登板にとどまった。 2010年3月4日にレンジャーズと1年契約を結んだ[3]。4月4日に15日間の故障者リスト入りし[4]、右前腕手術を行った。4月8日に60日間の故障者リストに異動した[5]。6月4日にAA級フリスコで復帰。8試合に登板し、6月24日にAAA級オクラホマシティへ昇格した。AAA級オクラホマシティでは27試合に登板して4勝2敗2セーブ・防御率3.73・33奪三振の成績を残した。11月6日にFAとなった。 ヤンキース傘下時代2011年2月11日にヤンキースとマイナー契約を結んだ[6]。AA級トレントン・サンダーで2試合登板した。 ダイヤモンドバックス傘下時代2012年12月21日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。 2013年は開幕から傘下のAAA級リノ・エーシズでプレーし、22試合に登板して1勝0敗・防御率2.75・33奪三振の成績を残した。6月11日に自由契約となった。 中日時代2013年6月14日に中日ドラゴンズと契約を結んだ[7]。契約の決め手のひとつとしてエクトル・ルナの推薦があったという[8]。31試合で2勝0敗13ホールド、防御率3.23とまずまずの成績を残したが、マット・クラークと共に球団から翌シーズンの契約を結ばないことが発表された。 中日退団後2014年1月23日にワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだ。シーズンでは傘下のAA級ハリスバーグ・セネターズとAAA級シラキュース・チーフスでプレーしていたが、8月7日に自由契約となった。 2015年は台湾プロ野球・中華職業棒球大聯盟の統一セブンイレブン・ライオンズでプレー。 2016年5月26日にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのアグアスカリエンテス・レイルロードメンと契約。 2017年から2019年にかけてはレギュラーシーズンでの所属球団なく、オフにドミニカ共和国のウィンターリーグに参加。 2020年2月5日にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのラグナ・ユニオン・コットンファーマーズと契約。しかし、コロナ禍の影響でリーグ戦が中止となり、登板機会のないまま退団した[9]。 投球スタイル150km/h前後のストレートとスプリットが武器でスライダーも投げる[8]。 クイックが非常に早く、東京スポーツによると1.1秒台のタイムを記録するという[10]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
登板時登場曲
脚注
関連項目外部リンク
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