ヴァシーリー・プーキレフ
![]() 不釣合いな結婚 (1863年) 右端の人物がプーキレフの自画像となっている ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ・プーキレフ(ロシア語: Василий Владимирович Пу́кирев, ラテン文字転写: Vasili Vladimirovich Pukirev)またはヴァシーリイ・ウラヅィミラヴィチ・プキラウ(ベラルーシ語: Васіль Уладзіміравіч Пукіраў、1832年12月13日〈ユリウス暦12月1日〉 – 1890年6月13日〈ユリウス暦6月1日〉)は、写実主義による世俗画を専門としたロシア人画家。 略歴農家に生まれ、元々はモギリョフ(現マヒリョウ)のイコン画家の徒弟であった。ちょっとした巡り合わせでモスクワ絵画・彫刻・建築学校へと進学することができ、1847年から1858年までセルゲイ・ザリャーンコとアポローン・モクリーツキーに師事した[1]。1850年以降は教員資格を得て美術教師として公立学校に勤めた。 1860年に歴史画と肖像画の講師になり、母校の近くのアパルトマンに落ち着いて、1873年まで同校の教壇に立った[2]。1862年と1864年にモスクワ美術愛好家協会の後援で、国外を旅して画廊を見学することができた。1869年にはアレクセイ・サヴラソフと協働で、公立学校で役立てるために図画の科目を整備した。絵画以外にイコンや、ゴーゴリやツルゲーネフの著作のための挿し絵も手懸けている[1]。 1873年に健康上の不安から教職を断念すると[1]、1879年に画家仲間が集って手当を供与したが、プーキレフは1890年に貧困のうちにほぼ忘れられて世を去った[2]。 不釣合いな結婚プーキレフの最も名高い作品が、現在トレチャコフ美術館に展示されている『不釣合いな結婚』である。プーキレフの姿がキャンバスの右端に(おそらくはベストマンとして)描かれており、そのため本作は作者自身の実生活における失恋というエピソードを描いたものだとする話が浮上した[2]。1863年にプーキレフは、本作を根拠としてロシア帝国美術アカデミーの名誉教授に任命された。本作は、プーキレフの支持者が、通常の世俗画が懐古趣味や感傷性に走りがちなのに対して、近代生活の中から深刻な主題を取り上げたとして称賛した[2]ことにより、報道機関に熱い論争を引き起こしてもいる。 作品集
脚注
参考文献
外部リンク
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