ヴァレリー・ラルボー
ヴァレリー・ラルボー(Valery Larbaud、1881年8月29日 - 1957年2月2日)は、フランスの詩人、小説家、随筆家、翻訳家。代表作に、子どもの繊細な感性を描いた短編集『幼なごころ』、「富裕なアマチュア」が書いた架空の全集という設定で短編小説、詩、日記によって構成される『A・O・バルナブース全集』がある。翻訳家としては、とりわけ、米国で発禁処分を受け、パリで出版されたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』のフランス語訳・監訳(1929年)で知られる。フランス語、英語のほか、イタリア語、スペイン語でも執筆した文学的コスモポリティスムの先駆者である。 生涯背景ヴァレリー・ラルボーは1881年8月29日、フランス中部にある有数の温泉保養地ヴィシー(アリエ県)でニコラ・ラルボーとイザベル・ビュロー・デ・ゼティヴォーの一人息子として生まれた。父ニコラは薬学を修め、病院に勤務した後、ヴィシーのサン=ティヨールでミネラルウォーターの鉱泉を開発・経営し、膨大な富を築いた[1]。ラルボーが8歳のとき、父が59歳で死去し、母イザベルに育てられたが、父の遺産により学業に専念することができただけでなく、母とともに欧州各国を旅行し、さらに後にこの遺産を相続したため、労働によって生計を立てる必要もなかった[1]。 教育地元の小学校に通っていた頃に耽読したのはジュール・ヴェルヌの冒険小説とピエール・ロティの『秋の日本』[2](Japoneries d’automne)であった[3]。 中等教育からはパリまたはパリ近郊の学校に通った。フォントネー=オー=ローズ(オー=ド=セーヌ県)のコレージュ・サント=バルブ=デ=シャンは、パリ最古の中等教育機関コレージュ・サント=バルブを本校とするカトリック系の私立学校で、ポール・デシャネルをはじめとする多くの文化人を輩出した名門校であり、1911年発表のラルボーの小説『フェルミナ・マルケス』の舞台となった[4]。次いでパリのリセ・アンリ=カトルに入学したが、ムーラン(アリエ県)に越したために同地のリセ・テオドール=ド=バンヴィルに転校し、最後にリセ・ルイ=ル=グランを卒業。1901年にバカロレアに合格してソルボンヌ大学に入学し、1907年に学士号を取得した[1]。 執筆活動在学中もフランス各地(ヴァルボワ、サン=ナゼール、ノワールムティエ島、ナント、ブールジュ)や欧州各国(スペインやイタリア各地、リエージュ、ケルン、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、ハルキウ、コンスタンティノープル、ソフィア、ベオグラード、ウィーン)を旅行した[3]。また、ソルボンヌ大学では英語とドイツ語を専攻したが、旅行をしながらイタリア語とスペイン語も習得した[5]。さらに、在学中から詩作を始め、1896年、リセ・テオドール=ド=バンヴィル在籍中に最初の韻文詩集『柱廊』を自費出版し、1903年には後に『A・O・バルナブース全集』に収められることになる「哀れなシャツ屋」を完成した。 同じ頃、ウォルター・サヴェージ・ランダーやサミュエル・テイラー・コールリッジなど英国詩人の作品をフランス語に翻訳し、発表し始めた。ラルボーによるコールリッジの『老水夫行』のフランス語訳が出版されたのは、ラルボーがまだ学生の頃であった[6]。この後、彼は特に小説家サミュエル・バトラーや米国詩人ウォルター・ホイットマン、ジェイムズ・ジョイスの翻訳家として知られることになる[7]。 ラルボーがジョイスと知り合ったのは、1920年、シルヴィア・ビーチが経営するシェイクスピア・アンド・カンパニー書店でのことであったが、ジョイスの『ユリシーズ』が翌1921年に米国で発禁処分を受けたときに、これを刊行したのがシェイクスピア・アンド・カンパニー書店であり、これを機に『ユリシーズ』のフランス語訳が開始され、1929年にラルボーの監訳により刊行された[3][8]。 1905年頃にアンドレ・ジッドと知り合い、書簡を交わすようになった。さらに、友人マルセル・レイを介して同郷の作家シャルル=ルイ・フィリップと知り合い、交友が広がると同時に、才能が認められるようになった。1908年に発表した『富裕なアマチュアが書いた詩』はゴンクール賞候補作になり、オクターヴ・ミルボーの賛成票を得るほどであったが、さらに1911年に発表した『フェルミナ・マルケス』もゴンクール賞候補作になり、複数の賛成票を得た[5]。『フェルミナ・マルケス』はジッドらが1909年に創刊した『新フランス評論』誌に4回にわたって連載された作品であり、ラルボーはジッドが寄稿していたもう一つの重要な雑誌『ラ・ファランジュ』にも短編「包丁」を掲載した。後に『幼なごころ』に収められる短編の中でも最も衝撃的とされる作品である[9]。 シャルル=ルイ・フィリップは1909年に35歳で早世した。彼の葬儀でラルボーは詩人レオン=ポール・ファルグと知り合った。ラルボーはファルグ、ポール・ヴァレリーとともに1924年に文学雑誌『コメルス』を創刊した。主幹は、オデオン通りでヴァレリー、ジョイスら前衛作家が集まる書店を経営し、シルヴィア・ビーチの書店設立にも協力したアドリエンヌ・モニエであり[10][11]、ラルボーが監訳した『ユリシーズ』のフランス語訳も『コメルス』誌に掲載された後、モニエの書店から刊行された。この翻訳にはファルグも参加している[12]。 『コメルス』誌は季刊誌であり、1932年まで刊行された。主な寄稿者は、アンドレ・ジッド、ポール・クローデル、フランシス・ジャム、アンドレ・シュアレス、ジャン・ポーラン、ジャン・ジオノ、アンリ・ミショー、マルセル・ジュアンドーらであったが、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンらによって同じ1924年に『シュルレアリスム革命』誌が創刊されたこともあって、同誌に寄稿していたブルトン、アラゴンのほか、アントナン・アルトー、ロベール・デスノスらのシュルレアリストも国際的な活動の場として『コメルス』誌に寄稿した[13]。さらに、国際性という観点からは、英語圏の文学のフランス語訳を掲載するだけでなく、フランスで活躍していた他国出身の作家が仲介役となって、特にイタリア語圏、ドイツ語圏の文学が積極的に紹介された。イタリア語圏はラルボーとともにジュゼッペ・ウンガレッティが担当、ドイツ語圏はベルンハルト・グレトゥイゼンがライナー・マリア・リルケ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールらを紹介した[14]。 晩年もともと病弱であったラルボーは、1934年に体調を崩して治療を受け始めたが、翌1935年に脳溢血で倒れて失語症に陥り、事実上、執筆活動ができなくなった。やがて半身不随になり、以後22年にわたって回復することなく車椅子の生活を余儀なくされ、1957年2月2日にヴィシーで75年の生涯を閉じた[5]。 同年、ラルボーの主な作品を収めたプレイヤード叢書が刊行された[15]。 1967年にヴァレリー・ラルボー国際友の会および同会によるヴァレリー・ラルボー賞が創設された。「ヴァレリー・ラルボーが好みそうな作品、またはラルボーの精神、美意識、思想に近い作品を著した作家」に与えられる賞であり、これまでにクロード・ロワ、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ、オリヴィエ・ジェルマン=トマ、ジル・ルロワらが受賞している[16]。 作品作風ラルボーはジョイスの翻訳家であったばかりでなく、小説の手法についてもジョイスから多くを学んでいる。特に内的独白による意識の流れの手法であり、すでに1913年に発表された『A・O・バルナブース全集』の「日記」において内的独白に近い内面の描写が認められるが、1920年代の作品ではラルボー独自の内的独白の作品が次々と描かれた[17]。 日本でラルボーの作品を最初に翻訳・紹介したのは堀口大學であった。その後、伊吹武彦や新庄嘉章の翻訳が刊行されたが、最も多くの作品を訳しているのは岩崎力であり、特に10篇の短編を収めた2005年刊行の『幼なごころ』は現在でもラルボーの代表作として広く知られている。主人公は少年・少女だが、児童文学作品ではなく、むしろ大人に対して批判的・挑戦的で、かといって直接反抗するのではなく、独自の繊細な感性をもった子どもたちである[9]。 主な著書
詩、小説、随筆
書簡・日記
全集
脚注
参考資料
関連項目外部リンク
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