一県一行主義一県一行主義(いっけんいっこうしゅぎ)とは、昭和前期に行われた大蔵省の政策。「戦時統合」と称される場合もある。1つの府県に1つの地方銀行に制限すべく、中小の地方銀行に対して強制的な統廃合を進めた。 概要昭和金融恐慌を受けて制定された銀行法に基づいて中小銀行の整理が進められていたが、1936年に廣田内閣の馬場鍈一大蔵大臣が国債消化の推進と生産力拡張資金の調達能力を上げるために一県一行主義を掲げた。馬場は銀行間の競争を国策の妨げと考え、府県もしくはそれに準じる地域ごとに資本金1000万円クラスの銀行を1つ置くことを目指した。日中戦争による経済統制の強化によって、取引先の事業活動停止や国債の低利での引受強制などを迫られた中小銀行は次第に統廃合に応じざるを得ない状況に追い込まれていき、太平洋戦争が開始された1941年頃には中小銀行の統廃合がほぼ完成した。 地域事情による差異ただし、「一県一行」は、あくまで目安であり、東京府・新潟県・兵庫県については、日本銀行の合併勧奨案にて当初から例外的に2行存続方針となっていた(なお、神戸銀行への合併を拒否し続けた香住銀行のみが集約されなかった兵庫県の場合、当局の意図とは異なる形で2行併立となった)。また、早くから米子銀行一行に集約されていた鳥取県と、既に最有力行の松江銀行を中心に3行に集約されていた島根県の場合、両行の営業エリアが両県に跨っており、疲弊した両県の経済の回復には両行の合併が不可欠とされ、山陰2県の全行合併を以て山陰合同銀行に集約された[1]。進展具合には差異があり、同一県内に2または3の複数行残った地域がある(例えば、静岡県では静岡・駿河(スルガ)・清水各銀行が統廃合されずに現存している)一方で、北海道や大阪府のように地方銀行が消滅してしまった地域もあった(大阪府ではさらに住友・三和・野村の合併も構想されていたが実現しなかった)。1932年末に538行あった普通銀行は、1945年9月には61行(都市銀行8・地方銀行53)に減少した。1949年、吉田内閣の池田勇人大蔵大臣が一県一行主義の緩和を表明し、その結果、1950年以後、地方銀行の新設(いわゆる、戦後地銀など)が認められるようになった。最終的に1968年の合併転換法の公布によって名実ともに一県一行主義は撤廃されることになった。 1945年9月時点での府県別地方銀行1945年9月時点の府県別地方銀行[2]。便宜上、施政分離された樺太庁及び沖縄県の銀行も掲載してある。戦後消滅行は斜体にしてある。
参考文献
脚注
関連項目
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