三条藩三条藩(さんじょうはん)は、越後国蒲原郡三条(現在の新潟県三条市)を居所として、江戸時代前期に短期間存在した藩。1616年、外様大名の市橋氏が入部し、新たな三条城(近世三条城)を築城した。その後入部した稲垣氏の転出により、1623年に廃藩となった。 なお、三条地域は中世より蒲原郡の政治中心地であり、市橋氏入部以前にも春日山藩(高田藩)の重臣が三条城(三条島ノ城)の城主を務めた。その時代も含めて「三条藩」とする解釈もある。 歴史関連地図(新潟県)[注釈 1] 前史戦国期の三条室町時代、上杉氏とともに越後に入った長尾氏は、三条を蒲原郡支配の拠点とした[1]。長尾氏が守護代として府中(現在の新潟県上越市直江津周辺)に常駐するため移ると、長尾氏の被官である山吉氏が蒲原郡支配を預かった[1][2]。 山吉氏は、信濃川西岸に位置する三条城(三条島ノ城、あるいは三条島城。三条市上須頃付近)を拠点とした[1][2]。山吉豊守の死後、三条城には神余親綱・甘粕景持(長重)が入った[1][3]。 堀家重臣・堀直政家
慶長3年(1598年)、上杉景勝は会津に移され、堀秀治が一族・与力大名とともに越後国に入部した。このとき、三条城にはその重臣・堀直政が城代(城番)として入り、5万石を治めた[4][5]。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では「慶長三年太閤より秀政[注釈 2]に越後国をたまふのとき、直政も同国沼垂郡にをいて五万石を領し、三条城に住す」とある[6]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の役において、越後の堀一族は東軍に属し[注釈 3]、上杉景勝が扇動した上杉遺民一揆と戦った。堀直政は柏崎に出陣して一揆を鎮定[6]。その子の直清[注釈 4]は三条城に在城しており、8月4日に三条城に押し寄せた一揆勢を撃退、次いで加茂山の砦(現在の加茂市加茂字要害山)に拠った上杉勢を9月8日に討つ功績を挙げた[6]。 直政は慶長13年(1608年)に「越後国高田において」[注釈 5]死去[6]。直清が家督を継ぎ、宗家(越後福島藩主[注釈 5])の堀忠俊に属した[6](なお、直清の妻は堀秀政の娘であり、忠俊から見て直清は義理のおじにあたる)。直清は弟の直寄と対立しており、慶長15年(1610年)に対立は徳川家康の裁定にかけられることとなった。結果、直清は宗家の堀忠俊とともに改易され、直清は出羽山形藩主最上義光に預けられた[6](越後福嶋騒動)。 松平忠輝付家老・松平重勝堀家の改易後、越後国には松平忠輝が入封した。元大番頭の松平重勝(能見松平家の松平重吉の四男)が忠輝に家老として附属され(御附家老)、三条城と2万石の領知を与えられた[7]。重勝の地位は三条城代とも表現される[4][5]。 元和2年(1616年)に忠輝が改易されると、重勝は召し返されて徳川秀忠に仕え[7]、翌元和3年(1617年)に下総関宿藩2万6000石を与えられた[7]。 藩史:近世三条城の築城![]() 1.三条城 2.三条島ノ城 市橋家の時代元和2年(1616年)8月、伯耆矢橋藩主であった外様大名の市橋長勝が、2万石を加増の上、4万1300石で三条に入部した[4][8]。 長勝は大坂の陣で功績のあった大名で、とくに夏の陣においては所領である河内国交野郡星田(現在の大阪府交野市星田)を守備し、大坂方面へ前進する徳川家康が一時期星田に本陣を構えた[8]。『寛政譜』によれば元和2年(1616年)、死に臨んだ家康は、市橋長勝・堀直寄(信濃飯山藩主)・松倉重政(大和五条藩主)・桑山一直(大和新庄藩主)および別所孫次郎(大和国内2500石)を呼び出し、譜代の士とともに秀忠に仕えるよう遺言した[8][注釈 6]。長勝は江戸に赴き、秀忠に拝謁した[8]。 長勝は、従来の三条城(三条島ノ城)が洪水の被害を受けやすいことから、信濃川を挟んで東に新たな三条城(現在の三条市元町付近)を築城した[4]。城下町の建設、新田開発や伝馬制度の設立などに尽力した。しかし、元和6年(1620年)3月17日に死去した[8]。 長勝には実子がなく、これを理由として旧領は収公された[9]。しかし、長勝の甥で別家を立てていた市橋長政[注釈 7]が家督を継ぐことが認められ、近江国蒲生郡・野洲郡ならびに河内国交野郡の3郡で2万石が与えられた[9]。長政は蒲生郡仁正寺村(現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路)を居所とし[9]、仁正寺藩を立藩した。市橋家が三条藩から仁正寺藩へ減転封されたと見なされる[4]。 稲垣家の時代元和6年(1620年)、越後国藤井藩2万石を治めていた譜代大名の稲垣重綱が、蒲原郡で3000石を加増されて三条城を与えられ[10]、三条藩主となって移った[4]。元和9年(1623年)、大坂定番が設けられると、重綱が大坂城玉造口の定番に、高木正次が京橋口の定番に任じられた[11]。 大坂定番が制度化されると、その職務のために大坂近辺に移封、あるいは加増地を与えられるようになる[12][注釈 8]。『角川日本地名大辞典』は、重綱の大坂定番就任に伴い、元和9年(1623年)に三条藩は廃藩となり、旧藩領は幕府領となったと記す[4][13]。『角川新版日本史辞典』も同様の見解を採る[14]。三条城は寛永19年(1642年)に破却された[15]。 『寛政譜』では、大坂定番就任時の領地変更を記していない。重綱は慶安元年(1648年)に大坂城代に昇進、翌慶安2年(1649年)に大坂城代を辞したのち、慶安4年(1651年)に三河刈谷藩主となった[10]。 歴代城主・藩主『角川日本地名大辞典』『日本大百科全書(ニッポニカ)』は、市橋家・稲垣家のみを「三条藩主」とし、堀直政・直清父子や松平重勝は独立の大名とみなさない(前者は堀家重臣、後者は松平忠輝重臣の扱い)[4][5]。『角川新版日本史辞典』は、市橋家・稲垣家に加えて堀直政家も三条藩主の歴代に含む[14]。 堀家外様 5万石 松平(能見)家譜代 2万石
市橋家外様 4万1300石→2万石 稲垣家譜代 2万3000石
領地三条町→「三条市」も参照
市橋長勝が建設した近世三条城は、現在の三条市元町の三条市立図書館(旧三条市立三条小学校敷地)付近に所在し、城下町「三条町」はその北側(現在の三条市東裏館・西裏館周辺)を中心としていた[15]。三条藩の廃藩・三条城の廃城後、旧城下町は衰微して「三条村」と呼ばれるようになった[15]。 一方、旧三条城周辺の空き屋敷や畑地の開発が行われ、新たな町場(「三条新田」 「三条出新田」[13]あるいは「出新田三条町」[15])が発展するようになった[15]。万治元年(1658年)に三条村から新たな町場が「三条町」として独立した[13]。延宝3年(1675年)、三条村と三条町の名が紛らわしいことから、三条村は「裏館村」に改称した[15]。 近世三条町は信濃川・五十嵐川舟運の河岸、北国街道・三国街道の枝宿であり、商業都市・宿場町として栄えた[13]。当地は慶安2年(1649年)年に村上藩領となるが[13]、三条は村上藩の飛び地である「四万石領」[注釈 9]の中心地となり、元禄元年(1688年)には陣屋がおかれた[13]。元禄3年(1690年)には東本願寺掛所(のちの真宗大谷派三条別院)が設立され、陣屋町・門前町の性格も帯びた[13]。 脚注注釈
出典
参考文献
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