上侍塚古墳
上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)は、栃木県大田原市湯津上(ゆづかみ)にある古墳。形状は前方後方墳。下侍塚古墳と合わせて国の史跡に指定されている(史跡「侍塚古墳」)。 下侍塚古墳とともに江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)の命で日本で最初の学術的発掘調査が行われた古墳として知られる。本項では、上侍塚古墳の北にある上侍塚北古墳についても解説する。 概要
栃木県北東部、那珂川右岸の段丘上に築造された大型前方後方墳である。江戸時代の元禄5年(1692年)の発掘調査のほか、2021年度(令和3年度)から発掘調査が実施されている。 墳形は前方後方形で、前方部を南方向に向ける。墳丘長は114メートルを測り、那須地方の前方後方墳6基のうちでは最大規模、栃木県の前方後方墳としては藤本観音山古墳(足利市)に次ぐ第2位の規模になる[1]。墳丘外表では葺石が認められる[2]。また墳丘周囲では、墳丘の北・西・南側で幅約20メートルの周溝が認められる。埋葬施設は後方部墳頂における粘土槨と見られる[2]。副葬品として、江戸時代の調査では銅鏡(捩文鏡か1)・管玉2・石釧1・鉄製品(鉄鏃18・甲冑片5・鉄器片1・鉄鉾身1・鎧板1・鎧片22・鉄刀片1)・土師器(高坏)が検出されている[2]。 築造時期は、古墳時代中期初頭の4世紀末葉頃と推定される[3]。下侍塚古墳とともに那須地方を代表する古墳の1つであるとともに、江戸時代の調査後には下侍塚古墳と合わせて墳丘保存のための松が植えられていることから、日本で最初の学術的発掘調査かつ調査後の文化財保護の点で考古学史上においても重要視される古墳である。 古墳域は1951年(昭和26年)に国の史跡に指定されている(史跡「侍塚古墳」のうち)[4]。 遺跡歴
墳丘![]() 墳丘 左に後方部、右に前方部(2021年度発掘調査時)。
墳丘の北・西・南側では、幅約20メートルの周溝が確認されている。東側では硬い砂礫層まで掘り下げた状態が台地の端まで続いており、周溝は認められていない[5]。
出土品江戸時代の調査で出土した副葬品は次の通り[2]。 記録によれば、調査後に出土品は松板箱に入れて8尺(約2.4メートル)下に埋めたとされる。ただし近年の地中レーダー探査では、箱に該当する応答は認められていない[5]。 上侍塚北古墳![]() 上侍塚北古墳 左に後方部、右に前方部。上侍塚北古墳(かみさむらいづかきたこふん)は、上侍塚古墳の北にある古墳。形状は前方後方墳。これまでに発掘調査は実施されていない。 墳形は前方後方形で、前方部を南方向に向ける。墳丘長48.5メートルを測るが、墳丘は現在までに大きく削平を受けている。埋葬施設は明らかでなく、副葬品も詳らかでない。 文化財国の史跡
関連施設
脚注参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia