世界ボクシング評議会
![]() 世界ボクシング評議会(せかいボクシングひょうぎかい、英: World Boxing Council, WBC)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はメキシコのメキシコシティにある。主要4団体中、加盟国が最も多いプロボクシング世界王者認定団体。 歴史設立1963年2月14日、世界ボクシング協会(WBA)、ヨーロッパボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)が対等の立場で討議する機関として設立[1][2]。初代会長ルイス・スポタ(メキシコ・ボクシングコミッショナー)。 WBAからの脱退1965年10月19日、WBC会長国メキシコがWBAを脱退する。カルロス・オルチス対イスマエル・ラグナ、ニノ・ベンベヌチ対サンドロ・マジンギの直接の再戦をWBAが許可したことに抗議。 1966年8月27日のWBC総会で、独自のルールと、初のWBC世界ランキングを発表して、WBAから完全に分裂した[3][4][5]。 1968年8月28日、フィリピンのボクシングコミッショナー、ハスティアノ・モンタノ・ジュニアが、当時のWBA内の議決権がアメリカ合衆国の州コミッションと、その他の国のコミッションが同じ一票であることを批判して、フィリピンのWBA脱退を宣言する。 その後、モンタノが同年9月に第2代WBC会長に就任して以降、世界王者のWBA、WBC分立が加速する。 世界タイトル戦15ラウンド制を明文化1966年8月27日のWBC総会で、世界タイトル戦のラウンド数を、それまでは10ラウンド制、12ラウンド制、15ラウンド制のいずれでも可能であったところ、15ラウンド制だけに限定した。(世界ボクシング協会(WBA)よりも先に明文化した。)[3] 世界タイトル戦12ラウンド制を開始1983年から世界タイトル戦のラウンド数を、それまでの15から12に短縮した(世界王座認定団体の中で最初に実施した)。 反アパルトヘイトによる、南アフリカ共和国関係者の除外1987年頃からは反アパルトヘイト色を強め、南アフリカ国籍の選手だけでなく、南アフリカで試合をしたすべての選手をランキングから除外した。リッキー・パーキーやマイク・ウィーバーらがその犠牲となり、ジュニアライト級1位のマリオ・マルチネスは南アフリカの選手と対戦契約を結んだだけでランクから外された[6]。 破産騒動2003年、グラシアノ・ロッシジャーニ(ドイツ)から不当にライトヘビー級の世界王座を剥奪したとして、3100万ドル(約34億円)の損害賠償を命じられる。その後も支払い命令の無効を求めたが認められず、ロッシジャーニとの和解交渉も不調に終わる。日本の民事再生法に相当する連邦倒産法第11章の適用申請(後に取り下げ)。 2004年6月14日、連邦倒産法第7章(会社清算)の適用を申請。組織の存続を念頭に置かない破産の手続きに入る。この際、ホセ・スライマン会長がWBCのウェブサイト上で声明を発表(後に破産手続き中止)。 2004年8月、和解が成立。この騒動は当時WBA以上と評判であるWBC権威の低下をもたらし、WBOなどが主要団体の一つになるきっかけになった。 ムエタイ部門の設立ホセ・スライマン会長、副会長ゴーウィット・パッグディープーム(タイ)とタイ・スポーツ局長サンティパープ・テーチャワーニットの間で“WBC MUAY THAI”の発足が報告され、2005年2月24日にムエタイの標準ルールに基づく運営をするなどの内容の覚書が作成され署名された。 2005年9月9日 - 香港で行われたムエタイの興業で、中国人散打選手、タイガー・チャン(張慶軍/中国)がマレック・“ザ・ジェット”・ボグスウィッツ(イギリス)を破りWBCの認定する最初のムエタイ王者(WBCムエタイインターナショナルヘビー級)になる。 女子王者認定2005年6月7日 - 女子16階級の世界ランキングを10位まで発表。スーパーバンタム級のジャッキー・ナバ(メキシコ)がWBC初の女子世界王者に認定された。 2005年11月7日 - WBC女子世界ストロー級初代王座決定戦がタイで行われ、日本人女子プロボクサー菊地奈々子がノンマイ・ソーシリパン(タイ/同級3位)をTKO(7R 0:50)で下し同王座の初代王者になる。また、日本人女子プロボクサーによる初のWBC女子世界王座獲得となった。 WBCダイヤモンド王座創設2009年8月に、「WBCダイヤモンド王座」(WBC Diamond Championship)の創設を発表。初のダイヤモンド王者となったマニー・パッキャオには、通常の世界王座のベルトをベースに、18カラットの金、861個のダイヤモンド、221個のエメラルド、6個のルビー、180個のスワロフスキー・クリスタル・ガラスなどの宝石が埋め込まれた特製のチャンピオンベルトが贈呈された。また、ベルトを覆う革にはフェラーリ社製のものが使われる。創設の際に行われた投票では、理事会の全員が賛成したという。翌9月には、メキシコシティのCorona Auditoriumで行われた記者会見で、WBC会長が実際に贈呈されるベルトを披露した[7]。 WBCシルバー王座創設2010年3月、ホセ・スライマン会長が暫定王座に替わるタイトルとして、11月にメキシコで開催予定のWBC総会で「WBCシルバー王座」(WBC Silver Championship)の創設を発表することを公表。なお、王者には、通常の世界王座のベルトをベースに、バックル部が金色ではなく銀色のシルバーベルトが贈呈される。また、暫定王者とは異なり、シルバー王者のWBCランクは維持される。 WBCフランチャイズ王座創設2019年6月、「WBCフランチャイズ王座」(WBC Franchise Championship)の創設を発表。 世襲されたWBC会長の座2014年1月16日、1975年以来38年間WBC会長を務めていたホセ・スライマンがカリフォルニア大学ロサンゼルス校内にあるロナルド・レーガンUCLAメディカルセンターで82歳で死去し[8][9]、前任者の四男でWBC事務局長のマウリシオ・スライマンは自身のWBC会長就任を否定したが[10]、同年2月11日にメキシコシティで行われた会長選挙で満票(26票)を集め、新会長に選出された[11]。奇しくもホセ・スライマンと同じ44歳でのWBC会長選出を果たしたマウリシオ・スライマンだが、結果的にはWBC会長の座がスライマン父子で世襲された形となった。 世界タイトルマッチ2000試合達成2018年3月17日にWBC世界スーパーライト級王座決定戦がWBCが認定した世界タイトルマッチの2000試合目として行われ[12][13]、ホセ・カルロス・ラミレスが12回3-0(120-108、117-111、115-113)の判定勝ちを収めマディソン・スクエア・ガーデン・シアターで行われたアミール・イマムとの一戦を制した[14][15]。 JBCとの関係1963年2月の設立と同時に、日本ボクシングコミッション(JBC)は、東洋ボクシング連盟(OBF)を通じてWBCに加盟しており[16][1][2]、良好な関係を保っていた。しかし1966年8月27日のWBC総会で、独自のルールと、初のWBC世界ランキングを発表して、WBAから完全に分裂したことから[3][4][5]、1966年9月27日にJBCは、WBC世界ランキングを認めないと発表した[17][18]。よって今後はWBC単独認定の世界戦を認めないとした。(実際に関光徳や花形進、ファイティング原田が海外でWBC単独認定王座に挑戦した際、たとえ王座を奪取してもJBCでは王者と認めないという達しが出ていた。) 2011年には東北地方太平洋沖地震による震災被害からの日本復興支援として、マイク・タイソン、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、マニー・パッキャオなど過去から当時に至るまでの世界王者十数名からサイン入りグローブやトランクスを集め、これに地震による電力不安の影響で東京から神戸へ会場が変更された4月8日開催のトリプル世界戦に出場の6選手から提供されたグッズを併せてJBCに託した。それらは日本の主なボクシング会場に展示の後、JBCが慈善オークションにかけることとなり[19]、同トリプル世界戦の調印式冒頭では、会長の息子で立会人を務める副会長のマウリシオ・スライマンが、この興行は日本を勇気づけるだろうと挨拶した後[20]、日本語で「WBCは世界のボクシング界の人々とともに、日本と一緒に戦います。ガンバレ、ニッポン」と激励メッセージを送った[21]。同年6月のJBC事務局長更迭に伴う混乱のため、この慈善オークションは大幅に遅れ[22]、2012年1月24日から3月11日までの7週間、Yahoo!オークションにて開催された[23][24][* 1]。 WBCルールWBC認定試合におけるルールの主な特徴を以下に挙げる。
タイトルWBCは世界王座の他にも、アメリカ大陸王座、インターコンチネンタル王座、ユース王座、ムンドヒスパノ王座、全アフリカ世界王座、女子世界王座(WBC FEMALE)、ムエタイ王座(WBC MUAY THAI)等の王座を認定している。
→詳細は「WBCダイヤモンド王座」を参照
歴代WBC会長
歴代WBC事務局長
下部組織WBAのPABA、NABAなどの組織は完全なWBAの下部組織であるが、WBCの下部組織は元々存在するコミッション同士が集まり、自分たちで結成した組織である。
関連項目団体王者一覧表WBCムエタイ
脚注出典
外部リンク
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