中核派書記長内ゲバ殺人事件
中核派書記長内ゲバ殺人事件(ちゅうかくはしょきちょううちゲバさつじんじけん)とは、1975年(昭和50年)3月14日、埼玉県川口市において革命的共産主義者同盟全国委員会(以下、中核派)書記長本多延嘉が、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)よって殺害された極左暴力集団による内ゲバ殺人事件である[1]。 事件の経過1975年(昭和50年)3月14日午前6時過ぎ、埼玉県川口市戸塚(現東川口)の男性から「午前3時30分頃、アパート2階でいざこざがあったようで、気になって午前6時ごろ行ってみたら、ガラス戸が破壊され、部屋には血が飛び散り男の人が死んでいる」との110番通報があった[1]。 埼玉県警察の捜査によると、アパートは3畳と4畳半の二間で、男は入口に近い3畳間で丸首シャツ、パンツ姿のまま死んでいた。一方、同日早朝、警視庁記者クラブに若い男から「中核派書記長本多延嘉を東川口のアパートで襲った。これは革マル派政治局員が襲われたこと[注釈 1]に対するわれわれの回答だ」と電話があり、指紋と本多の弟が身元を確認したことなどから、アジトで就寝中の中核派書記長本多延嘉が革マル派の襲撃を受け、鉄パイプ、ハンマー、斧等で全身を滅多打ちにされ、頭蓋骨骨折、脳内出血により死亡したことが判明した[1][2][3][4]。 通報した男性は県警の事情聴取に対し、「午前3時30分頃、アパートで騒ぐ音がしたので2階に行ってみたところ、15~16人くらいの男がいて、その中の2~3人はストッキングをかぶっていた。男の一人から、『お前は関係ない、引っ込んでいろ』と言われたので、そのまま自分の部屋に帰った」と話した[5]。アパートの住民らは警察に知らせようとしたが、電話が通じなかったという。鳩ヶ谷電話局が調べたところ、現場近くの電話線が3か所切断されており、不通になっていた。また、襲撃された部屋は本多とは別の第三者名義で賃借されていた[2][3][4]。 黒田寛一革マル派議長によると、本多書記長を捕捉できた理由は、運転手付きで乗車していた自動車の車種(日産・プレジデント)を特定することに成功したからだという(『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪(下)』)。 同日夕方、革マル派は解放社(公然拠点)で記者会見を開き、革マル派全学連委員長土門肇が次の声明を読み上げた[6]。
東京教育大学生リンチ殺人事件以降、革マル派は内ゲバ専門部隊「全学連特別行動隊 (JAC) 」を創設し、内ゲバを強化した。一方、中核派は「二重対峙・対カクマル戦」の方針を策定し、革マル派に「宣戦布告」をし、双方による内ゲバ抗争を繰り返していた[5]。 革マル派は1972年(昭和47年)の「内ゲバ勝利宣言」に続き、1975年(昭和50年)3月28日、「中核派解体闘争における勝利を最終的に確認」したとして、「内ゲバ停止宣言」を発表したが、これより前の3月17日、中核派は「革マル派に対する無差別報復」を宣言し、1975年(昭和50年)だけで14人の革マル派活動家を殺害した[5]。 脚注注釈出典参考文献
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