中道主義(ちゅうどうしゅぎ、伊:Centrismo)は、1947年から1960年頃まで続いたイタリアの政治体制。流動的だったが、主にキリスト教民主党(DC)・イタリア共和党(PRI)・イタリア自由党(PLI)・イタリア民主社会党(PSDI)の4党によって形成された。
歴史
第二次世界大戦後のイタリアは、国民解放委員会(CLN)を構成していた党を中心として運営されていた。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカは西側諸国に対して、共産主義・社会主義の政党を政権から追放するよう強いた。当時首相だったデ・ガスペリは、社会党と共産党を政権から追放し、中道的な自由党・共和党・民主社会党の3党を政権に組み込みんだ。これが中道主義の起源である。このような経緯で誕生したため、中道主義では、反共主義、親米路線を主軸としていた。
しかし、1953年の選挙で与党が敗北すると、中道主義に陰りが見え始めた。この選挙において、キリスト教民主党は詐欺法(批判的な勢力による呼び方)と呼ばれる法律を制定していた。これは、政党・政党連合で得票が過半数に達せば、議会の3分の2の議席が与えられるという内容だった。キリスト教民主党は中道主義連合に加えて、南チロル人民党とサルデーニャ行動党を取り込んだ6党連合で選挙に臨んだが、連合の得票率は49.8%と過半数に達しなかった。なお詐欺法は1954年に廃止された。デ・ガスペリは間もなく首相を辞任し、およそ1年間、キリスト教民主党の単独政権が続くこととなった。一方で、それまで共産党と協力関係にあった社会党はハンガリー動乱の影響を受け、中道色を強めていた。1960年3月に、タンブローニがファシスト党の流れを汲むイタリア社会運動(MSI)の閣外協力を受けて組閣すると、与野党から反発を浴びたため、その反動として、キリスト教民主党のうち、中道左派のファンファーニが組閣を行った。ファンファーニ内閣の信任投票では、社会党は反対票を投じず、棄権した。1963年12月に成立した第1次モーロ内閣では、社会党は与党入りを果たし、中道主義は完全に終了し、有機的中道左派の体制へ移行した。
議席数の変遷
関連項目