中野新町 (名古屋市)
中野新町(なかのしんちょう)は愛知県名古屋市中川区及び熱田区にある町名。現行行政地名は中川区に中野新町1丁目から中野新町7丁目と6つの小字が、熱田区に字イノ割が存在する。住居表示未実施[6]。熱田区中野新町は鉄道用地のみ[7]。 地理中川区中野新町は、名古屋市中川区の南東部に位置し、東に福船町、西に太平通、南に昭和橋通、北に八家町と接する。このほかに中川運河の河川用地に6つの小字が残る[8]。 熱田区中野新町は、字イノ割が名古屋港線の鉄道用地のみに残存する。東に古新町、西に八剱町が接する[9]。 字一覧中野新町とその前身である中野外新田の小字は以下の通り[8][9][10]。 以下の表において、
歴史江戸期に開発された中野外新田の一部に該当する[1]。 町名の由来中野外新田の名による[11]。 近世中野外新田(なかのそとしんでん)は、江戸時代の尾張国愛知郡で開発された新田[12]。中野村に隣接することからこの名がついた[12]。1641年(寛永18年)に当地周辺の有力百姓であった鬼頭家の先祖(鬼頭弥五郎なる人物の5代前)が開発したと言い伝わる[10][12]。開発から26年後の1667年(寛文7年)に尾張藩士の鈴木嘉十郎という人物の給地として縄入れが行われ[10]、以降全域が鈴木嘉十郎の給地となっていた[12]。頭百姓の鬼頭弥五郎以外は「高持細民」とされたという[12]。中野外新田の領域は現在の名古屋港線から西方に延び、名古屋市立工業高等学校西の「二十番用水」(庄内用水中井筋)と呼ばれる用水路に及ぶ広大な範囲を含んでいた[10]。町名でいうと現在の中野新町のほか外新町、昭和橋通、福川町、八剱町、福船町、太平通、古新町、八家町、小碓通、昭明町、北江町、法蔵町の各一部が該当する[13]。村落は笈瀬川の下流に当たる中川(中川運河の前身)により東西に分かれており[11]、中川の東が「中島屋敷」「五軒屋敷」、西が「西屋敷」とそれぞれ呼ばれていた[10]。江戸期は農業が主に行われており、カボチャ、トウガン、スイカ、柿などを栽培し、知多郡、津島、横須賀(現在の東海市横須賀町)へ売りに出していたという[11]。畑が多かったため、周辺の丸米野村、熱田新田、八ツ屋村などから人手が来ていた[11]。『寛文村々覚書』によると中野外新田は本田概高200石、反別35町、新田3石、家数16、人口86、馬6[11]。このほかに萱野が1反あった[12]。文政年間になると人口が増加し、家数64、人口243となっていた[11]。 明治以降中野外新田は、1889年(明治22年)に合併に伴い八幡村大字中野外新田となった[1]。1911年(明治44年)、中野外新田西端に国鉄名古屋港線が開通[10]。1921年(大正10年)には名古屋市に編入され同時に中野新町と改称された[1]。大正時代には中川運河の掘削が計画されたため西屋敷の約30戸が移転対象となり、現在の中野新町2~7丁目に住民の多くが移住した[10]。1930年(昭和5年)、中川運河は開通した[10]。中野新町は、戦後に貸家ブームを呼び住宅地として、昭和以降は、道路整備なども行われ鉄工業が栄えた[10]。新田開発の功績をたたえて弥五郎が建てた「鬼頭氏遺愛碑」が現在でも域内に残る[10]。 行政区画の変遷
その他、一部が中川区太平通・八家町・福船町・福川町・八剱町・外新町・昭和橋通および熱田区古新町に編入されている[1]。 年表
世帯数と人口2019年(平成31年)2月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
学区市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[14][15]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[16]。
施設
その他日本郵便脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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