久保亮五
久保 亮五(くぼ りょうご、1920年2月15日 - 1995年3月31日)は、日本の物理学者。東京大学、京都大学、慶應義塾大学教授。全米科学アカデミーとフランス科学アカデミー名誉会員。線形応答理論で知られる。 経歴1920年、東京府駒込で中国文学者の久保天随の5人目の子供(4男)として2月15日に誕生。1931年、父・天随が台北帝国大学教授に就任したため、一家は台湾の台北市に移った。翌1932年、台北高等学校尋常科に入学。しかし、1934年に父が死去したことにともない、駒込に戻る。東京府立第五中学校に編入して中学校を4年で修了し、1936年に第一高等学校 (旧制)理科甲類に入学。1939年、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1941年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。卒業後は、1943年より同大学理学部助手となった。 太平洋戦争後の1946年、上條千鶴子と結婚(1948年に長女の真知子、1950年に長男の幸夫、1957年に次女の多恵子が誕生)。同年には助教授昇進。1950年、理学博士の学位取得。1954年に教授に昇進した。1953年に冨田和久と「不可逆過程の統計力学」の一般論(線形応答理論に基づいたフーリエ変換NMRの基礎理論)を提唱[2]。 学界では、1960年に日本物理学会会長に就任。1974年には、全米科学アカデミー名誉会員になる。また、1979年には仁科記念財団の理事長に就任。 1980年に東京大学を定年退官し、京都大学基礎物理学研究所教授となった。翌1981年に京都大学も定年退官し、慶應義塾大学教授ととして1992年まで教鞭をとった。1982年、伏見康治のあとを受けて日本学術会議会長を務め、日本学士院会員に選出された。1984年よりフランス科学アカデミー名誉会員。昭和天皇崩御に伴い、1989年1月7日に元号制定委員として平成の制定に立ち会った。世界平和アピール七人委員会の委員となる。 1991年、井上科学振興財団理事長に就任。1995年に死去。墓所は多磨霊園と文京区日輪寺。 1991年より理事を務めていた井上科学振興財団は、生前の業績を記念して1997年に久保亮五記念賞を創設した。 ノーベル財団が公表したノミネートリストにより、1970年・1973年・1974年にノーベル物理学賞のノミネートを受けていたことが明らかになっている[3]。 職歴
受賞・栄典
研究内容・業績線形応答理論久保公式特に線形応答理論の構築に貢献し、彼の提案した理論は「久保理論」の名でも呼ばれている。 家族・親族著作単著
共著編著訳書
出典
参考文献
外部リンク
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