二万大塚古墳
二万大塚古墳(にまおおつかこふん)は、岡山県倉敷市下二万(しもにま)にある古墳。形状は前方後円墳。倉敷市指定史跡に指定されている。 概要
岡山県南部、小田川支流の二万谷川が形成する谷の東側に築造された古墳である。現在では後円部の石室前に迩摩神社が所在する。2001-2004年度(平成13-16年度)に発掘調査が実施されている。 墳形は前方部が発達した前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘は2段築成[1]。墳丘外表では円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)が検出されているが、葺石は認められない[1]。また墳丘北側くびれ部には造出を付し、人物埴輪・家形埴輪・須恵器が検出されている[1]。墳丘周囲に周濠・周堤は認められていない[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口し、内部に木棺を据えたと見られる。石室内の調査では、銅鏡・装身具・武器・工具・馬具・須恵器・土師器など多数の副葬品が検出されている。 築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉頃(TK10型式期)と推定され、その後の追葬が認められる[1]。小規模ながら高梁川西岸では最終段階かつ唯一の前方後円墳であり、渡来系要素の強い中期の天狗山古墳(倉敷市下二万・川辺)とは異なる定型的前方後円墳として注目される[1]。また吉備地方では最古期の横穴式石室を有する点で特筆され、6世紀後半の江崎古墳・こうもり塚古墳(総社市)の存在を考え合わせて、当時の吉備地方の政治情勢を考察するうえで重要視される古墳になる[2]。 古墳域は2005年(平成17年)に倉敷市指定史跡に指定されている[2]。 遺跡歴墳丘墳丘の規模は次の通り[1]。
墳丘のテラスおよび埴輪列は、墳丘北側(墳丘片側)でのみ検出されている。墳丘主軸の後円部端・前方部端ではテラスは検出されていないものの多量の埴輪片が出土しており、テラス・埴輪列は元々全体に存在したか(テラス・埴輪列とも流失)、墳丘北側のみで全体には存在しなかったか(テラスはなく埴輪は墳頂から転落)は明確でない[1]。 墳丘の北側テラスでは、造出が段差の無い形で取り付く。造出は地山削り出しによって構築されており、長さ5.6メートル・最大幅9.2メートルを測る[1]。造出の方形平坦面では、南辺に墳丘テラスの埴輪列があり、他の辺にも埴輪列を設置して方形埴輪区画を形成したと見られる(ただし北辺は残存せず、東辺・西辺の途中で途切れる)[1]。平坦面南西側(墳丘側)では形象埴輪(家形埴輪・人物埴輪)が、平坦面北側・裾部では須恵器片(坏身1・甕3・脚付壺1)が検出されている[1]。 また調査では、各トレンチで墳頂からの転落等と見られる埴輪片・須恵器片(坏蓋・坏身・壺・脚付壺・器台・甕)・手捏土器・鉄滓などが出土している[1]。 埋葬施設埋葬施設としては後円部において両袖式横穴式石室が構築されており、南南西方向に開口する。石室の規模は次の通り。
石室の石材は小ぶりな割石である。玄室の奥壁は5-6段積み、東壁は7段積み、西壁は7-8段積み[1]。羨道の東壁は3-7段積み、西壁は3-5段積み[1]。天井石は、玄室では5石、羨道では5石の計10石[1]。羨道部中央には排水溝が認められる[1]。 石室内からは鉄釘・鎹が出土していることから、木棺の使用が推測される。ただし木棺および人骨の痕跡は確認されていない[1]。 出土品石室内の調査で検出された副葬品は次の通り[1]。
文化財倉敷市指定文化財
脚注参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
関連項目外部リンク
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