二宮赤城神社
二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。 関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。 祭神ほか数柱。 歴史![]() 概史創建は不詳で、平安時代にさかのぼると見られる。赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる[2]。当社が「二宮」と称したのは12世紀前後と見られる[3]。 六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。論社には赤城山麓に鎮座する当社のほか、山腹の三夜沢赤城神社、山頂の大洞赤城神社があり、確定していない。 戦国時代末期には北条氏直により荒廃したが、大胡城に入った牧野氏により社殿が整備されたという。 明治時代には、近代社格制度において郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。 神階六国史に記載される「赤城神」に対する神階奉授の記録(比定には当社以外にも説がある)。
赤城信仰での位置づけ当社の真北に位置する。 →「赤城神社 § 歴史」も参照
「赤城神社」を称する神社は群馬県を中心として数多く存在する。それらの大元とされる『延喜式神名帳』記載の名神大社の比定を巡って三夜沢赤城神社・大洞赤城神社・二宮赤城神社の間で議論がなされてきたが、決着はついていない。 当社は赤城山麓に位置し、東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される[5]。また、数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ[5]、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測される[3]。 現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月の年2回両社間での神輿の渡御がある。三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置しており、それとの関係も指摘される。なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ[6]、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという[6]。 境内境内には堀と土塁がめぐらされている。中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、1984年(昭和59年)に市の史跡に指定されている[2][1]。
祭事文化財群馬県指定文化財前橋市指定文化財重要文化財
史跡
重要無形民俗文化財
現地情報所在地 交通アクセス 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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