井仁の棚田
井仁の棚田(いにのたなだ)は、広島県山県郡安芸太田町中筒賀井仁にある棚田。井は丸い、仁は集落を意味していると伝えられている[1]。 「日本の棚田百選」。2000年「広島県環境づくり大賞」受賞。2015年CNN「Japan's 31 most beautiful places(日本の美しい風景31選)」選定[4][5]。 歴史棚田の形成太田川上流域に位置するこの地の歴史は、戦国時代以前の資料がほとんどないため[6]この棚田形成について推定による部分が多い。 『芸藩通志』に断片的に書かれていることによると、平安時代末期、山県郡の筒賀は殿賀・戸河内・安野・加計・都谷とともに「大田郷(大田荘)」と呼ばれた厳島神社荘園で、地頭として栗栖氏が支配していた[6][7][1][8]。このことから、この地で開墾が始まったのは平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定されている[1]。そして井仁に集落が形成されたのは室町時代前期と推定されている[1]。 ![]() 一般に石垣の歴史は戦国時代以降の築城の歴史と重なるため、この棚田の石積の最古のものは戦国時代ごろに形成されたものと推定されている[1][9]。特に戦国時代末期から安土桃山時代にかけてこの地を支配した吉川氏[6]は文禄・慶長の役において築城人足として支配下の住民を多く動員したことから、そこで習得した石積技術を持ち帰った人達によってこの棚田が形成されたものと考えられている[1][9]。現在井仁の棚田を紹介している資料では約500年前に作られたとしている[5]。 広島藩検地帳である『地詰帳』によると、1638年(寛永15年)時点での井仁の耕地は現在のものとほぼ同じ大きさであることから、この時期にはすでに現在の棚田の姿が完成していたことになる[1]。 保全活動以下、近代以降の歴史を列挙する。
かつて農地面積は20haあった[11]。1960年代から始まった中山間部の過疎化[1]と減反政策による1970年代ごろからの耕作放棄[12]により離農が進んだ。1990年代に入り地元住民の間で棚田存続に向け動き出した[11]。ちょうどこの頃、棚田の食料生産や地すべり防止などの多機能的あるいは景観など文化的な面で再評価される動きが全国的にみられるようになった[12]。 ![]() 1997年筒賀村は棚田を活かした地域活性化を提案する[12]。「桃源の里井仁」をキャッチフレーズに住民・自治体が協力して保全活動を展開した[13]。この活動の大きな特徴は広島都市圏へアピールし「都市農村交流」を展開したことである[11]。中山間部の一集落に過ぎなかったこの地は、中国自動車道・広島自動車道と広域交通網が整備されたことにより広島市中心部から1時間弱[10]と比較的気軽に立ち寄れるようになったことを活かして、広島都市圏の住民との交流を積極的に図り昔ながらの伝統農法の体験・学習の場として開放した[13][11]。棚田祭り、現在の井仁棚田体験会が始まったころである1999年に広島県で唯一「日本の棚田百選」に選ばれたことにより、メディア露出が増えることになりこの活動がうまく軌道に乗ることになる[14]。広島市のみならず県内各地から見学あるいは保全活動に参加が増え、井仁棚田体験会では2015年現在で100人前後が参加し、更にUターン・Iターンで定住している家族もいる[11][13][14]。こうしたことからここでは棚田オーナー制度を採用していない[15]。 2015年CNN「Japan's 31 most beautiful places」には広島県内では厳島神社とともに選定されている[5]。 棚田![]() 太田川水系田ノ尻川上流に位置し、標高は500mから550m、その周りを標高400mから1,110mの急峻な山で囲まれているすり鉢状の盆地の中にある[1][10]。 平均勾配は1/6[1]。農地面積12.7ha、そのうち棚田が7.9ha324枚になる[1][3]。 すり鉢状であるため高いところへ水を運ぶため、「添水」と呼ばれる水車がある[1]。 石垣の材質は花崗岩で、ほぼ垂直に積まれている[1]。ほとんどが谷積で、一部に高さ1.5mほどの野面布積が残っている[1]。この野面布積が中世初期の典型的な石積工法であるため、この棚田が戦国時代から作られ始めたと推定されている[1]。最大のもので4m近い高さになり、所々に「渡り石」と呼ばれる石垣から少し飛び出た足場が設けられている[1]。それに加え、所々に「横穴」あるいは「蛇口」と呼ばれる通水用の穴が開いている[1]。 現代に入り集落全体を延長約4kmのイノシシ防護柵が設けられた[1]。 見学用の展望台やトイレ・駐車場も整備されている。 イベント
ギャラリー交通
脚注
参考資料
外部リンク
座標: 北緯34度33分39.6秒 東経132度16分58.4秒 / 北緯34.561000度 東経132.282889度 |
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