京都市立明親小学校
京都市立明親小学校(きょうとしりつ めいしんしょうがっこう)は、京都府京都市伏見区淀池上町にある公立小学校。 概要万延元年(1860年)5月11日、淀藩の当時の藩主稲葉正邦が家老の松尾直在に創設させた藩校「明親館」を前身とし、学制発布にあたり「明親館」の校舎・教師を引き継ぐ形で、1872年(明治5年)12月に設立された[1]。 沿革
通学区域明親小学校の通学区域は、京都市の元学区(学区)の淀学区に一致する[4]。 また、久世郡久御山町の大橋辺(うち、府道宇治淀線より東側)[5]の区域が、区域外通学の対象となっている[6]。 関係者
淀学区→「淀」も参照
淀学区(よどがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市伏見区に位置する。明親小学校の通学区域と概ね合致する、京都市の地域自治の単位となる地域区分である。 淀学区の沿革現在の淀学区の地域は、以下のような変遷を経ている。 近世の淀城下には、池上町、下津町、新町の城内3町と、納所町[注釈 1]、大下津町、水垂町の城外3町の6町があった[7]。 かつての「島之内」にあたる城内3町および淀城内は、廃藩置県により明治4年(1871年)7 - 11月の淀県[注釈 2]を経て京都府に属し、その後1889年(明治22年)10月に池上町、下津町、新町により町村制に基づく久世郡淀町が発足した。(現在の淀本町・淀池上町・淀下津町・淀新町・淀川顔町・淀木津町にあたる。) 城外3町のうち、桂川右岸にある大下津町、水垂町は、もともと各々大下津村、水垂村の一部であったが、明治4年(1871年)に紀伊郡から乙訓郡へ転属、1878年(明治11年)には、水垂町が水垂村に、大下津町が大下津村に併合され[9][10]、1889年(明治22年)10月に町村制施行により、水垂村、大下津村および水垂村に接する樋爪村が合併して、乙訓郡淀村が発足した。(現在の淀水垂町・淀大下津町・淀樋爪町にあたる。) この乙訓郡淀村は、1936年(昭和11年)2月に、久世郡淀町に編入された。(また、淀町は1935年(昭和10年)4月には、現在の淀美豆町・淀際目町・淀生津町にあたる綴喜郡美豆村を編入している。)その後、淀町が1957年(昭和32年)4月1日に京都市へ編入され、これらの地域は伏見区に所属することになった。 人口・世帯数京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[11]、淀学区の区域に設定されている国勢統計区(伏見区第8国勢統計区[注釈 3])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は8,327人、3,779世帯である。 地理伏見区の南西部に位置する学区であり、北側は羽束師学区、東側は横大路学区と納所学区、南側は久世郡久御山町と淀南学区、西側は長岡京市と乙訓郡大山崎町に接する。面積は2.615平方キロメートルであり[注釈 4]、区域の中央部を桂川が横切り、両岸は宮前橋で結ばれる。 淀学区の通学区域淀学区の通学区域は、現在全域について、小学校は京都市立明親小学校、中学校は京都市立大淀中学校となっている[4]。 淀学区の町名周辺
脚注注釈出典
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク |
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