仁義を切る仁義を切る(じんぎをきる)とは、任侠、テキヤ、香具師、博徒、渡世人などが初対面の際に交わす挨拶の形式を表現する言葉[1]。「仁義」の元の意義としては、人間の行動規範の根本として孔子の説く博愛を意味する「仁」に正義を意味する「義」を合わせて最高の徳として孟子の説いたものである[1]。ただし、江戸時代であっても博徒は必ず仁義を切るものでもなく、鉱山等において過酷な重労働に従事する労働者の人足部屋(飯場、寄宿舎)では仁義を切って銭をもらったという話もある[2]。鉱山夫に存在した友子制において、鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った。 転じて、事をなすにあたって先任者・関係先などに挨拶することや事情を説明しておくこと、事前に連絡を入れておくことも指す[3][4][5]。政治の世界においては、あいさつや説明責任の意味あいとなることもある[6][7][8]。 概要上述のように任侠、テキヤ、香具師、博徒、渡世人などが初対面の際に自己紹介の手段として用いられる[9]。口上が淀みなく歯切れの良い口調であるか、気の利いた台詞や言い回しであるかで、当人の力量が判断される儀式ともなっている[9]。形にはまった形式も多く、形式から大きく逸脱することは許されておらず、管理社会から縁遠いと言われる渡世人の世界の方がしきたりや束縛が強いという矛盾を孕んでいる[9]。ヤクザ社会においても同様で、厳しい束縛やしきたりが多い[9]。ただし、現在では名刺などで自己紹介を行うことも多く、軒先で仁義を切って自己紹介を行うようなことは廃れている[9]。 テレビドラマ、および映画シリーズの『男はつらいよ』では渥美清が演ずる主人公「車寅次郎」が自己紹介を行う際に何度か行われている。第5作『男はつらいよ 望郷篇』では寅次郎の舎弟である「川又登」(演・津坂匡章)と仁義を切り合う場面がある[10]。初対面の挨拶として仁義を切ることは、実際の挨拶というよりも、芝居や舞台の中における「見せ場」の一つとして用いられている[10]。 一身上の都合で旅人(たびにん。旅から旅に渡り歩く者)となった者も、手拭1本あればその土地土地の親分を訪ね、一宿一飯の恩を蒙り、草鞋銭(わらじせん)を得て旅行することができたという。ただし、一言でも言い間違えたり、所作に間違いがあった場合は「騙り」とみなされ、袋叩きになって追い出され、殺されても不思議ではなかったが、旅人の属する地域や一家などにより所作や口上の違いはあり、仁義の切り方によりそれらを確認することができた。なお、仁義の所作のほか、食事の出し方、出された食事の摂り方、寝具の使い方にも決まった所作があり、それを外れると食事に並々と醤油をかけられるなどの「懲らしめ」がされることもあり軽んぜられた。逗留中の一家で他の一家の出入り(一家をあげての喧嘩や抗争)があった場合、一宿一飯の恩義に報いるためとして旅人は率先して加勢することが求められた。 識字率が低かった時代の身分証明の手段でもあり、前近代では幅広い層で行われた習慣の一つであり、厳格な所作は同業の者であると確認するための目安であった。現在では任侠・テキヤも名刺を用いるようになったため、挨拶法としては行われていない。 一例を示せば、
映画明治から昭和初期までの時代を題材にしたヤクザ映画や、江戸時代を題材にした股旅物ではよく仁義を切るシーンが見られる。
参考
出典
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