今井隆吉今井 隆吉(いまい りゅうきち、1929年2月16日[1]ー2012年10月10日[2])は、日本の原子力問題の専門家、外交官、新聞記者、原子力技術者、科学評論家。専門は核不拡散、保障措置など[3]。 略歴1929年(昭和4年)、父今井文平(元大倉鉱業、元大倉商事会長)、母信子(または信、小坂善之助五女)の五男として東京に生まれる。兄に今井兼一郎(元日本機械学会会長)がある。元外務大臣小坂善太郎、元運輸大臣小坂徳三郎兄弟らは従兄弟にあたる。 少年時代、エドウィン・O・ライシャワー夫人から英語を習った[4]。 旧制東京府立高等学校から、1952年東京大学理学部数学科卒[5]、ガリオア資金で米国留学し[4]、フレッチャー法律外交大学院(M.A)[6]および1956年ハーバード大学大学院国際関係学修士(A.M)[7]。1961年アルゴンヌ国立原子力研究所留学[8]。「核物質保障措置技術の理論」で1974年工学博士(原子力工学、東京大学)[9]。 1956年朝日新聞科学記者(水戸支局)、1958年日本原子力発電に転じ[10]、燃料課長[7]・技術部長[6]を歴任。外務省参与を兼ねる[11][6]。1980年から1982年クウェート大使、1982年から1986年ジュネーヴ国連軍縮会議日本政府代表部特命全権大使、1987年から1990年メキシコ大使などを歴任したのち、杏林大学社会科学部教授、原子力委員会参与、世界平和研究所首席研究員・理事、日本原子力産業会議(日本原子力産業協会の前身)常任顧問、上智大学客員教授、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)理事を務めた[12]。 日本で初めて「原子の火」が灯った1957年8月、茨城県東海村の日本原子力研究所の研究用原子炉を朝日新聞記者として取材。英語力を買われ、日本原子力発電(原電)に転職した[4]。原電当時の部下に与謝野馨がいる[13]。原電技術部長時代に外務省参与として米国ジミー・カーター政権と極秘に交渉し、使用済み核燃料の再処理に米国の同意は不要とする日米原子力協定改定の足がかりをつくった[14](改定は1988年)。大平正芳内閣の民間人大使のひとりとしてクウェート大使に着任[4]。1981年の国際原子力機関(IAEA)事務局長選挙に備え、大使としての箔付けや中東のIAEA理事国訪問の都合を考慮した人事とされるが、選挙では米国の積極的な支持を得られず、西側諸国から候補が乱立し票が割れて落選した[15](スウェーデン元外相のハンス・ブリックスが当選)。ジュネーヴ軍縮会議代表部大使在任中の1985年には核不拡散条約(NPT)再検討会議で議長を務めた[14]。 著書
共編著
翻訳論文脚注
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia