伊藤小坡
伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)[1]、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)[2]は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。 画歴伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年(明治24年)頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。 1898年(明治31年)には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。この頃、京都市立美術工芸学校教授の荒木矩から漢字と国語を、漢学者の巖本範治から漢字を学んでいる。昭和に入ると小坡の美人画は当時の風俗を主題にしたものから、歴史や故事に想を得たものが多くなるが、その変化を可能にしたのはこの頃の研鑽があったからに他ならない。 1905年(明治38年)に同門の伊藤鷺城と結婚し、翌年には長女知子、1910年(明治43年)には次女芳子、1914年(大正3年)には三女正子が誕生している。1915年(大正4年)には第9回文展にて「製作の前」が初入選で三等賞を受賞。上村松園に次ぐ女性画家として一躍脚光を浴び、1917年(大正6年)には貞明皇后の御前で揮毫を行なうなど画家として、また妻としても充実した生活を送る。 この頃の作品では、第10回文展(1916年・大正5年)入選の「つづきもの」や第12回(1918年・大正7年)文展入選の「ふたば」のような、普段の何気ない生活の一場面を女性として、また妻としての視点から描いた作品が見て取れる。大正という時代にあって、家庭に入り家事や子育てに勤しみながら絵を描き続けることには大変な苦労があったと思われる。しかしながら小坡はそれをものともせず、逆に男性作家や家庭を持たない女性では気付くことのできない視点を取り上げることによって、現代に生きる我々が見ても親しみを感じることができる日常風俗を描写することができたのである。 反官展を掲げて渡辺公観らが集まり日本自由画壇が1919年(大正8年)に結成されると、小坡も創立同人として参加するが竹内栖鳳のすすめもあり翌年には脱退する。1921年(大正10年)の第3回帝展には、これまでの当時の風俗を主題をとした作品でなく、中国元代に高明によって創作された戯文である『琵琶記』を主題にした作品、「琵琶記」を出品している。この作品は翌年開催された日仏交換美術展にも出品され、フランス政府に寄贈される(当初買い上げであったが後に寄贈に変更、現在パリのポンピドゥ・センター所蔵)。 また、1915年(大正4年)に師である谷口香嶠が没して以降、誰のもとにもつかず創作活動を行なっていた小坡であるが、1928年(昭和3年)にかねてより尊敬していた竹内栖鳳が主催する画塾である竹杖会の一員となり、1928年(昭和3年)第9回帝展に「秋草と宮仕へせる女達」を出品している。この作品は平安時代の風俗をもとに、7人の女性の周りに沢山の秋草が配されており、古典的な表現を用いて描かれている。「琵琶記」を制作した頃から続けられてきた日常風俗を主題として描く画家から、歴史・物語を主題とした女性像を描く画家への転換がこの作品により完成する。 このような歴史風俗や人物から取材した作品は、晩年の小坡作品の多くを占めるようになり、描かれた凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出している。 1968年(昭和43年)に90歳で没。小坡の画業を語るとき、明治大正期の日常風俗を主題にした作品と、昭和期の歴史風俗や物語を主題にした作品とに大別することができるが、それはあくまでも表面的な表現方法の違いでしかない。全ての作品の中にある小坡の人間に対する視線はいつの時代でも一貫しており、その視線を通じて描き出された人物像の存在感こそが小坡作品の魅力である。 年譜
主な作品
主な弟子脚注出典参考文献
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