佐藤庄太郎
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日[1][2][3])- 1954年(昭和29年)4月29日[4][5])は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 経歴陸奥国磐城郡泉崎村(福島県[4]石城郡草野村[1][6]泉崎[3][5]、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋[3]・渡辺市重郎の三男として生まれる[2][7]。同郡大野村の横山家の養子となるが[3]、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村[1]大字中神谷[3](平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業[3]・佐藤昌三郎の養子となる[1][2]。大野小学校を経て神谷小学校を卒業[1]。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退[1][3][注釈 1]。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ[3]。1898年(明治31年)家督を相続し[7]、家業の農業、酒造業を営む[4][6][7]。 18歳で自由民権運動に加わり[5]、24歳で神谷村会議員に選出された[1][3][4][7]。石城郡連合組合町村会議員、石城郡会議員、平町会議員などを務めた[1][3][4][5][6][7]。1915年(大正4年)福島県会議員に選出され[5]、同県政調査会特別委員会長にも在任[4]。また、立憲政友会福島支部常任幹事、同支部幹事長、政友会本部党務委員なども歴任した[1][3]。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)で当選し[5][7][8]、衆議院議員に1期在任した[4]。 実業界では、1912年(大正元年)平信託 (株) を設立して支配人に就任[3]。その他、好間製糸取締役、平炭礦監査役、東海炭礦取締役、只見川電気取締役、磐城木材取締役、平電力監査役、東部信託監査役などを務めた[2][3][6][7]。 1936年(昭和11年)神谷村長に就任して2期10年間在任し、農業会長、産業組合長、健康保険組合長も兼務して、村政の発展のため日夜尽力した[5][6]。 国政選挙歴
著作
親族
脚注注釈
出典
参考文献
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