倉敷地域
倉敷地域(くらしき ちいき)は、岡山県倉敷市における行政上の地域区分である。市域の北中部に位置し、市役所の本庁直轄エリアである。倉敷美観地区のある倉敷中心市街地を中枢としており、水島地域・玉島地域・児島地域とともに倉敷市の主要4地域を形成している[1]。 倉敷市内の一地域としての「倉敷」は、当ページで説明しているエリアの他に、当地と水島を合わせた旧倉敷市域を指すことや、他に当地に支所管轄域としては小規模な茶屋町地区・庄地区の両地域を合わせたものを指すこともあるが、市内の「倉敷」としてはおおむね当地をさす事がほとんどである。 また狭義では、旧倉敷町(倉敷村)域を指すこともあり、これについては倉敷町および倉敷地区を参照のこと。 なお、1928年から1967年まで存在した旧倉敷市については「倉敷市#旧倉敷市」参照。 概要岡山平野の西部を占める倉敷平野と呼ばれる広大な平地を中心にした地域である。平野の北部には福山丘陵(都窪丘陵)、東部には早島丘陵(帯江丘陵)、南部には児島山塊の北端部や連島山塊、西部は高梁川に囲まれる。中央を東西にJR山陽本線が走り、中央部には鶴形山・加須山丘陵の独立丘があり、そのすぐ北西に倉敷駅がありその南に中心市街地が広がる。 かつては中心市街地に商業が集中し、郊外は古くは綿花、近代ではイグサの栽培が盛んで、加えて果樹や野菜などの近郊型農業も盛んであった。また、かつての綿花栽培に由来する繊維関連や、イグサ加工品などの地場産業が多く見られた。しかし、高度経済成長時代以降のモータリゼーションの発展により郊外に大型幹線道路が整備され、郊外にロードサイド店舗が林立していき、また水島工業地帯や関連企業の立地により、郊外はベッドタウンとして市街化してゆき、農地や地場産業は激減。代わりに第二次産業従事者及び第三次産業従事者が増大した。これに伴い、中心市街地も全盛に比べると大幅に勢力を失った。 中央省庁の出先機関をはじめ、市内の広域行政機能の多くも集中する。 沿革歴史元は吉備の穴海の西部にあたる阿知の海と呼ばれる海域であったが、高梁川の河口部であったため、土砂の堆積作用で徐々に浅くなっていき干潮時には干潟が広がるようになっていた。中世末期に宇喜多秀家家臣の岡氏が指揮して干拓が行われ、倉敷平野の北部が造成されたのを皮切りに、江戸時代まで数度の干拓が行われて現在の平地が生まれた。これにより、島嶼であった児島が陸続きとなった。現在、平地部に多くの用水路が張り巡らされているのは、そのためである。 当地の中心市街地、特に現在倉敷美観地区として観光地となっているあたりは古くは窪屋郡(のち都窪郡)倉敷村と呼ばれ、江戸時代に天領の代官所が置かれた陣屋町、および海に面していた時期は港として、陸地化してからも倉敷川を利用した川港として、物資の集散地として大いに栄えた。多くの豪商が生まれ、現在の白壁の町並みが築かれた[2]。 明治になり廃藩置県が行われると、倉敷代官所の支配地(倉敷支配所)を前身とする倉敷県の県庁所在地となるも、明治4年に統合により小田県(深津県)となり、県庁は倉敷村から移った。さらに同8年には岡山県へ編入となる[2]。 直接的な前身となる旧倉敷市は、昭和2年4月1日、都窪郡倉敷町(初代)・万寿村・大高村の3町村が合併し生まれた、新たな倉敷町が、後に周囲を合併して区域を広げていったものである[2]。 昭和3年4月1日、新たな倉敷町は市制を施行し、倉敷市(初代)となる。これは岡山県内で岡山市に次ぐ2つめの市となった。市役所は前神町(現・中央1丁目北部)に置かれた。続いて同25年9月1日には児島郡粒江村、同26年3月26日には都窪郡帯江村・中庄村・菅生村を、同27年4月1日には都窪郡豊洲村、同28年1月1日には浅口郡西阿知町、同28年6月1日に浅口郡連島町および児島郡福田町(ともに現在の水島地域)を、さらに同29年12月1日に児島郡藤戸町をそれぞれ編入合併していき、順次市域を拡大していった[2]。 そして、昭和42年2月1日に隣接する玉島市・児島市と対等合併して、新たなる倉敷市(現行の倉敷市)を新設した。市役所は当地(旧倉敷市部)に置かれ、玉島・児島の旧役所には支所が設置された(後に現在の水島にも置かれる)。旧倉敷市の内、連島・福田であった地区を除いた区域は、市役所本庁の直轄となり、倉敷市内の一地域として「倉敷」と呼ばれるようになった[2]。 旧市制施行後、中心地となる旧倉敷町域には昭和5年に大原美術館、昭和23年に倉敷民藝館、昭和25年に倉敷考古館など美術・学術関連の文化施設が次々と建設され、また以前から大原孫三郎等による町並み保存・景観整備運動の流れもあったことから、文化都市的要素が多分い包蔵された市勢が根付いていった。これは新・倉敷市へも引き継がれている[2]。
年表
地勢
経済工業西阿知地区に小規模ながら工業団地がある。その他地域内に大小の工場が点在している。代表的な物にクラレ、中国化工、丸五ゴムなど。また、クラボウの創業地であり、現在も登記上では倉敷市本町に本店を置いている。 農業古来は海だった地を新田開発のために干拓され平地化した土地であるため、かつては米をはじめとする農業は盛んだったが、現在は宅地化・市街地化が進行し農地は大幅に減少している。しかし、市街でも田畑はところどころ点在しており、郊外ではまだ田畑も多く、米・野菜を中心に農業は行われている。しかし、市内の他地域や他自治体と比べると産業としての農業は脆弱である。 商業
地区一部重複している地区がある。なお小・中学校の学区および旧町村域とは必ずしも一致しない。 中部
→詳細は「倉敷美観地区」を参照
南部
→詳細は「笹沖」を参照
南西部
西部
北西部
北部
→詳細は「菅生地区 (倉敷市)」を参照
北東部→詳細は「中庄地区」を参照
東部
行政市の機関県の機関国の機関
交通鉄道道路教育大学
短期大学
高等学校
中高一貫校
中学校小学校
特別支援学校観光観光地伝統工芸品等
関連項目
脚注
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