入江家
入江家(いりえけ)は、藤原北家御子左流藤谷家の支流にあたる公家・華族である[1]。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家[2]。 歴史入江家は、冷泉家分家藤谷家の支流である。権中納言藤谷為条の末子である従三位相尚が、貞享4年(1684年)に新たな堂上家創設したのに始まる。入江の家名は冷泉為相の舎兄為教の子為兼が京極または入江と称したことに因んでいると見られる[3]。 公家としての家格は羽林家[3]、新家[3]、外様[3]。鷹司家の家札[3]。江戸時代の石高は30石3人扶持[3]。家学は和歌・有職故実[3]。菩提寺は真如寺だった[1]。非参議正三位を先途とする[3]。 為福の代に明治維新を迎える[2]。維新後の明治2年に公家と大名家が華族として統合されると入江家も公家として華族に列した。 明治3年に定められた家禄は、現米で254石1斗[4][注釈 1]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万1510円95銭5厘(華族受給者中354位)[6]。 明治8年に為福が死去し、養子の為守(上冷泉家の冷泉為理四男)が家督相続[2]。明治前期の為守の住居は京都府上京区玄武町にあった[7]。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として為守が子爵を授けられた[10]。 為守は貴族院議員の子爵議員に3回当選した他、大正3年には東宮侍従長、同10年には侍従次長、昭和2年に皇太后宮大夫兼御歌所長を務めるなど、皇室の信任が厚かった[11][2]。昭和11年に為守が死去した後は、その子為常が襲爵。為常は東京帝国大学理学部卒業後、陸軍科学研究所や理化学研究所に勤務。貴族院の子爵議員も務めた。彼の代の昭和前期に入江子爵家の住居は東京市牛込区余丁町にあった[11]。 また、為守の三男の入江相政は長らく侍従長として昭和天皇に近侍した[2]。 系譜
脚注注釈
出典
参考文献
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