内田栄一 (作家)内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 1994年3月27日)は、日本の小説家、劇作家、脚本家、演出家、映画監督。 概要岡山県出身。実家は岡山市内の古書店[1]。鎌倉アカデミア中退。 若い頃には安部公房に師事。新日本文学会に入会して小説家としてデビューする。1974年には金子正次らとともに、劇団東京ザットマンを旗揚げするなど、アングラ演劇の活動も盛んに行っていた。 生涯1930年(昭和5年)、岡山市に生まれる。生家は老舗の古書店。1945年、中学三年生のとき、高射砲の弾を作る工場に動員される。岡山大空襲で家を失い、愛媛県などに疎開。15歳の夏に終戦。戦後は、高校に通いながら、詩作と小説執筆に熱中。花田清輝、安部公房らのアヴァンギャルド芸術運動に感化される。安部が所属する「世紀の会」に入会。 1948年、18歳で上京。鎌倉アカデミアに入学するが、数か月で廃校となる。横須賀の米軍基地で警備員のアルバイトをしながら、「世紀の会」の学習会に参加。1950年、帰郷し古書店を手伝う(20歳)。貸本を仕入れて卸す仕事などもしていたという。岡山県庁製作の短編映画で、助監督を務める。1955年、同人誌に寄稿した小説「浮浪」が雑誌『文芸』に掲載される。三島由紀夫も推薦した。 1957年、安部公房の勧めにより、再び上京(27歳)。『季刊現代芸術』の編集に携わる。安部が台本を書いていたテレビやラジオ番組の下書きなどを行う。1960年、NHKの和田勉を紹介され、テレビドラマの台本を執筆。1962年、劇団「舞芸座」のために、戯曲「表具師幸吉」を執筆。瓜生良介の演出で上演される(美術・安部真知)。その準備の過程で、安部公房と訣別(32歳)[2]。この年、安部の『砂の女』が出版されている。 1964年、劇団「発見の会」の創立に参加。劇団名を発案する。当時、東京12チャンネル(現・テレビ東京)のディレクターだった田原総一朗と組み、ドキュメント番組の構成を手掛ける[3]。1965年、TBSの連続ドラマ「七人の刑事」の台本を執筆。今野勉が演出した。内田の妻ゆきが俳優のマネジメントをしており、栄一を紹介したという[4]。 ゴキブリの作りかた1966年、第二次「発見の会」のために、戯曲「ゴキブリの作りかた」を執筆(36歳)。上演され好評を博す(美術・ワダエミ)。「アングラ劇のパターンの出発点」といわれる[5]。ニッポン放送のティーチイン番組「ザ・パンチジャーナル」の構成を担当。岩波映画の製作・構成にも携わる[6]。1967年、戯曲「流れ者の美学」を発見の会で上演。その後、瓜生と訣別。このころ、雑誌で自らガールハントを実践する企画も行っている[7]。 1968年、「モダンアート前衛集団」のために、戯曲「ゴキブリ王」「ゴキブリ仁義」を執筆。このころ、『潮流ジャーナル』の編集者だった西田敬一と「ゴキブリ製造所」を結成する[8]。1970年、演劇集団「変身」のために、戯曲「ハマナス少女戦争」を執筆。外波山文明に出会う。その後、俳優座の若手の依頼により、戯曲「吠え王オホーツク」を執筆。上演を拒否される[9]。 1971年、街頭劇として、「混乱出血鬼」「混乱出血鬼錯乱号」を執筆(41歳)。外波山文明の「はみだし劇場」が野外で上演しながら、東北地方をまわる。NHKのテレビドラマ「さすらい」でその模様が放映される。1972年、映画「濡れた欲情・特出し21人」に、内田と外波山が出演。果物屋の軒先で「混乱出血鬼」を演じる。 1973年3月、『週刊プレイボーイ』で、劇画「噫(ああ) 日本共産党50年伝」(原作・内田栄一、作画・旭丘光志)の連載を開始。73年4月、福島県いわき市湯本に一軒家を借り、24時間演劇公演「外波山文明城」を実施。高校を卒業した秋吉久美子が観劇に訪れ、隣の席にいた内田ゆきにスカウトされる[10]。73年7月、「噫 日本共産党50年伝」が連載中止となる。内田は、西田らと「クスボリ共同隊」を結成し、抗議活動を開始。大学祭などで「野戦劇」を展開する[11]。 東京ザットマン1974年、映画「妹」のシナリオを執筆(44歳)。このころ、金子正次に出会う。内田が主演した映画「痴漢と女高生」公開。金子らと劇団「東京ザットマン」を結成する。映画「バージンブルース」公開[12]。1975年、クスボリ共同隊は分裂し、西田敬一らは「愛情シーツ工房」として活動する。内田は「東京ザットマン」を中心に活動。「美少女自動販売機」「昭和まぼろし花」「少女疾走」などを上演する。1976年、『地球ロマン』復刊第3号に、小説「黒シネマ」を寄稿。76年11月、昭和天皇の在位50年記念式典が行われている[13]。 1977年、劇団名を「ザットマンセブン」と改め、「宇宙人少女とUFO少年の謎」など上演。1978年、セックス・ピストルズに衝撃を受け、「映画の作りかた:パンク・パンク・パンク」を上演。その後、内田は小説の執筆をはじめ、金子は映画製作へと向かう。 1981年、映画「スローなブギにしてくれ」のシナリオを執筆(51歳)。このころ、山本政志と出会う。映画「闇のカーニバル」に出演。1982年、映画「水のないプール」のシナリオ執筆。田口トモロヲに依頼され、演劇活動を再開する。1983年、演劇集団〈わ〉で、「佐川君のつくりかた」「演劇の作りかた/演劇のこわしかた」を上演。83年10月、金子正次・脚本主演の映画「竜二」が公開される。その直後、金子が死去。 1984年、「銀幕少年王:金子正次への報告公演」を実施。1985年、劇団「銀幕少年王」結成。1986年、「新・ゴキブリの作りかた」「100メートル決勝!」上演。劇団を「銀幕少年王ランニングシアター」に改名する。1987年、「ランニングシアター100M決勝! 2」など上演。映画シナリオ「永遠の1/2」を執筆。1988年、既製の商品と俳優の肉体を組み合わせた一人芝居を、年間を通じて実施する。 1990年、8ミリ映画「きらい・じゃないよ」を監督。1991年、16ミリ映画「きらい・じゃないよ 2」を監督。映画シナリオ「熊楠 KUMAGUSU」を執筆。映画「心臓抜き」に医師役で出演。1992年、映画「部屋/THE ROOM」に出演。路上に倒れる死体の役。1993年11月、入院、12月手術。1994年3月、肺ガンによる大静脈破裂のため死去(63歳)。 主な作品映画脚本
監督
出演
テレビドラマ脚本
小説
漫画原作エピソード
著書
編集
脚注
参考文献
外部リンク
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