別府ゴルフ倶楽部
別府ゴルフ倶楽部(べっぷゴルフくらぶ)は、大分県杵築市山香町にあるゴルフ場である。 概要戦前、大阪商船株式会社の協力を得て「別府観光の父」と呼ばれる油屋熊八が、泉都別府の魅力づくりにと「別府ゴルフリンクス」を設立し、1930年(昭和5年)8月4日、別府郊外の豊岡奥の高原に9ホールのゴルフ場を開場したことに始まる[1][2]。九州では第4番目に開場したゴルフ場で、九州で現存するゴルフ場としては「雲仙ゴルフ場」(1913年(大正2年)開場、設計・CF・ダイクマン、Mビュックランド)に次いで第2番目の歴史のあるコースである[1]。 コース設計は、日本のプロゴルファー第1号の福井覚治とアマチュアゴルファーの先達でもある伊藤長蔵の共同設計である[1]。伊藤は、大谷光明と渡米してコース設計や築造を学び、帰国後は「廣野ゴルフ倶楽部」(1932年(昭和7年)開場、設計・C・H・アリソン)で、アリソンの下で働いた経験がある[1]。伊藤は、ゴルフ場の建設用地に1本の木もないのを見て、スコットランドにそっくりといい、「英国ではバンカーに砂を入れないものだ」と語った[1]。 別府ゴルフ倶楽部は、戦前、9ホール増設して18ホールを完成させた。敗戦後、財閥解体が進むことに伴い、大阪商船がゴルフコースを手放した後は、米軍に進駐され接収されることとなった[1]。その後、1954年(昭和29年)、島崎悦吉がゴルフは将来流行するだろうとの予見から買収し、コースの拡大を計画した[1]。別府ゴルフ倶楽部の用地は、もともと92万坪の広さがあった、翌年、1955年(昭和30年)8月、コース設計を島崎悦吉自らが行い9ホール増設し、九州では初めての27ホール規模のゴルフ場となった[1]。 1993年(平成5年)、さらに島崎悦吉が設計を行い9ホールを増設し、合計36ホール規模のゴルフ場が完成された[1]。1930年(昭和5年)に9ホールが開場されてから90年が経過して、92万坪の高原は大きなスケール感と、伊藤長蔵の英国流の設計思想が今も生きている[1]。 所在地〒879-1313 大分県杵築市山香町久木野尾1753-4 コース情報
クラブ情報ギャラリー交通アクセス脚注
関連文献
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