利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ4
越後長岡藩の家臣団の真木氏について越後長岡藩の家臣団の真木氏についてですが、真木三郎左衛星門は、父と出奔していなかったのは確実でしょうか? 真木小太輔の記事の説明との整合性もあり、どのようにお考えでしょうか? 私の印象としては父と共に出奔していなかったように思いますが決め手がないのです。 温古之栞は、後世に三国志の説話に真似て作ったものだと思いますが、真木氏は、真木清十郎が居場所がなくなって出奔したから、減石されたのか、それとも減石または、事実上、惣領権を剥奪されて一族を直参化されそうになったから出奔したものとお考えになりますか? 鶏が先か玉子が先かの議論に似ていると思いますがいかがでしょうか?また真木清十郎は、藩主・牧野氏が徳川直参に取立ててもらえるよう口効きでも期待していたのでしょうか?--鉄三郎 2008年2月5日 (火) 14:23 (UTC) 私のノートに、故城一片之月 さんからの質問の回答を書きました--鉄三郎 2008年2月6日 (水) 06:55 (UTC)。
真木(槇)氏の経歴について鉄三郎さんへ、 これは私個人の考察ですのでウィキペディアの記事として記述可能かは注意が必要です。
牛窪記に登場する個人名は真木越中守定安・定善・善兵衛・又次郎です。郷土史家某氏(氏名失念)の解説によると、定安を兵庫之助重信、定善を清十郎・善兵衛を小太夫と比定し、又次郎は真木越中守定安の極めて近縁者としていました。これについて故城一片之月のご意見を伺いたいと存じます。 真木越中守定安・定善の比定は、この郷土史家や、故城一片之月さんと同意見です。 問題は善兵衛なのですが、牛窪記を読むと越中守定安から定善・善兵衛の時代に移ったことが漠然とわかります。突然、登場する善兵衛とは、定善の実弟であったのでしょうか? 善兵衛は、鍛冶村古屋敷住人として、定善と連名で二葉松に記載があるほか、牛久保城古図では、単独で屋敷を持っています。 又次郎は、牛久保城の堀の中に屋敷を持っているが、越中は城下に出仕屋敷を持っていません。又次郎の屋敷が出仕屋敷であったのではないかという推定をなさった人もいるようです。 しかし、又次郎が真木越中守定安の惣領や庶子であるとするには、かなり無理があります。又次郎が今川氏の感状の宛先になっておらず、永禄12年に死亡しているからです。 すると又次郎は極めて近縁者と言っても、真木越中守定安の子供ではなさそうです。ほかに極めて近縁者ということにしたければ、定安の末弟あたりに比定するのが妥当だと思います。これを否定すると極めて近縁者ではないということになります。 いまは無き、一本松の真木氏葬地の写真を私はみたことがありますが、いずれも自然石の墓石で、3つの墓石が寄り添うように置かれていました。これを見るとやはり、又次郎は真木越中守定安の極めて近親であるとの思いがしてしまいます。 討ち死にした真木越中守定安の子供は若輩であり、いきなり名実共に真木一族の惣領権を持つのは無理であったので、叔父の善兵衛に後見させる必要があった。そこでそれまで、真木越中守定安だけの記述であったのものに、連名で善兵衛が登場するようになったと推察されるという意見も存在します。この説だと越中守定善と善兵衛が叔父・甥の仲ということになり、兄弟説を否定することになります。 永禄4年に真木清十郎が力戦したことが伝えられているため、永禄4年には10代半ば以上ではあったとは思いますが、この時代は13歳位の初陣は当たり前で、故城一片之月さんの推定より真木清十郎は、かなり若く長岡入封まで代替わりせず一人であるとの見方ができます。 真木系図(東大史料)によると、重信(兵庫之助)→ 重清(清十郎)→ 重勝(初名新助・三郎左衛門・内蔵之助<※内蔵介・内蔵助に非ず>)→ 重明(以下略)となっており、あくまで重信から、重明まで4代となっています。 次に真木五郎八は、500石であったと諸士由緒記にありますが、別の記録(おそらく一般には査読不可能)によると、五郎八は初名であり、通称は庄左衛門といい200石が加増された700石の家臣(先法家槇氏と同格)にまでなったというものがあります。この記事がもし査読不能で採用できないとしても、分限帳に真木庄左衛門700石(茂と庄を間違い 茂に訂正)とあるは、誰を指すのか想像すれば、容易にたどりつくと思います。出奔しなかった真木氏(小太夫系)1700石は、清十郎系の帰参で家禄の一部を返上したはずですが、真木氏惣領家700石、槇氏惣領家700石として、2系統となったなったものと見るべきではないでしょうか。真木氏惣領家700石は、罪により改易・再興されたことはいうまでもありません。 あとは小諸真木氏の家系をどうみるかです。真木善兵衛の家系とする説、小太夫家系の庶流とする説があります。真木善兵衛と小太夫が同一家系という説もありますので、それであれば悩みが少なくてすみますが、叔父・甥説を否定することになります。 小諸真木氏は、槇内蔵介家から元禄年間頃に養子を迎えて、槇氏を称するなど、先法家の槇氏に取り込まれていったようです。惣領家が小太夫家であれば無理からぬ気もしないではありません。 また一般論として、初名と通称名を混同して使用するところが近世の史料には多くあります。真木越中が通称であったが、初名の清十郎で御引越し御人数帳は書かれ、かなり後世に書かれている温古之栞には、越中で登場する。五郎八も誰が見ても初名であり、ほかに通称があったことは疑いがないということは、ご理解頂けると思います。 どうか故城一片之月さんのご意見をお聞かせください。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 17:47 (UTC)
が正しい見方と思います(「諸士由緒記」もその様に扱っているはず)。
こんな感じです。--故城一片之月 2008年2月8日 (金) 18:32 (UTC)
「七百石、真木茂左衛門」を真木五郎八に比定しています。茂と庄を誤りました。
また真木越中守の名を定善と、明確に特定しているのは、おっしゃるように牛窪記や牛窪密談記ではありません。私が少し錯覚しました。しかし、三河国二葉松では明確に特定していたように思います。「鍛冶村古屋敷 真木越中守定善・同善兵衛」とあります。また太田亮・立命館大学教授の著書2冊にも、真木越中守定善が登場します。
寛永分限 真木庄左衛門200石 槇三左衛門250石 槇新左衛門250石 槇九兵衛200石 真木茂左衛門700石 槇新助600石 槇内蔵介200石 おそらく先法槇氏当主の新助600石 隠居した内蔵介が200石なのでしょう。このとき先法家槇氏の分家として認められていたのは、槇三左衛門家と、槇平兵衛家だけで、槇八右衛門家や槇吉之丞家は、年代的にまだ登場しませんし、その上、禄高が異なります。槇九兵衛は古文書の翻訳者の誤記・誤訳または平兵衛の異称だと思います。また想像ですが槇新左衛門250石は、槇先法家の部屋住み身分の家督相続予定者だと思われます。槇氏は真木家文書などから家督相続前に要職に就任していることが多いからです。 真木庄左衛門200石、真木茂左衛門700石は、真木小太夫の家系であることが想像されます。 真木茂左衛門(700石)が真木五郎八と同一人というお話は何かで確認できますか?とのご質問ですが、これはあらためて検討した結果、ウィキ本文に掲載は無理だと思いました。小諸真木氏系の文書に見ることができます。小諸真木氏系の文書は誰でも査読することができません(一部はできますが、その中に含まれていませんから取り下げます)。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 20:42 (UTC) 社団法人 小諸市荒町和合会では、小諸の古文書を集めて保存しています。和合会所蔵文書としてこれから大きく郷土史に寄与すると思います。まだ閲覧体制が充分ではないようです。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 21:09 (UTC) 次は私の考えではなく、郷土史家から聞いた話しの要旨です。 真木清十郎の父である兵庫之助が討ち死にしたのは、永禄4年(1561年)です。真木清十郎が永禄4年に戦功記事があるので、これが初陣であったとすれば、およそ数え13歳であった想像できます。長岡入封が1618年ですから、数え70歳に相当します。大胡から出奔したとすれば、数え52歳以降と推定されます。江戸時代であっても生存可能な年代と言えるという主張をされていました。当然、初陣してすぐ戦功というのは無理であるので、プラス何年かはしないといけないとは思います。あるいは父のあだ討ちの戦いと位置づけて、誰かが功名を譲るか、立てやすくしてくれたのかもしれません。そして真木善兵衛は若輩の真木清十郎を補佐して一族の長老として、重きをなしたというものです。戦国時代は分割相続の時代ではないので、兵庫之助の2人の子供に兄弟で分割相続させて、弟も牛久保年寄衆に取り立てるというのは、よほど弟に功名があった場合に限られるはずだとのことでした。だから真木善兵衛を清十郎の叔父と見るべきだという内容でした。 私は話しに無理がありすぎるとは思いますが、考えさせる点もあると感じました。この説の最大の弱点は真木清十郎の生殖能力です。いったい真木清十郎は何歳で父親になったかということです。いくら戦国時代が早婚であっても、少し早すぎます。どうしても強引にこの説にこだわるなら、真木清十郎は小太夫より年下の弟か、それ以外の人物から養子(真木三郎左衛門)を迎えたと想像するしかありません。 故城一片之月さんの言うように、清十郎は襲名で親子で2人いたとするか、兄弟相続があったとみるほうが自然なようには思います。 --鉄三郎 2008年2月8日 (金) 21:40 (UTC) 七百石、真木茂左衛門・二百石、真木庄左衛門はどのような人物とお考えになりますか? 与板真木氏は、与板藩文書・及び与板系の真木氏の文書などいずれでも、槇姓の使用は見られず、真木姓で一貫していますが、元禄年間以降は小諸藩文書・小諸真木氏文書(仮称)・江戸武鑑・牧野一郎所蔵文書では、槇姓や真木姓が混用されるようになります。 長岡元禄分限帳にある槙権左衛門が小諸藩に赴任して、真木家の枠を相続したということなのでしょうか? 単純な養子相続だったのでしょうか? なぜここにこだわるかというと、理由があります。 与板に立藩したときに、随従したのは真木権左衛門、その子は在所家老に昇格して真木権左衛門と称しました。三代目は、真木六郎兵衛と称して、やはり在所家老となったということが、与板藩文書・小諸真木氏文書(仮称)・牧野一郎所蔵文書にあってすべて共通であり、一般に査読可能な文献もあるため疑いの余地がありません。ところが長岡元禄分限帳に槇権左衛門が突然登場する。槇勘左衛門重全(後に内蔵介に改称)が天然痘に感染したため、弟を出仕させたが、槇勘左衛門重全が奇跡的に回復した。これにやや近いことが長岡の歴史1(今泉氏著)にも触れられています。 槇勘左衛門重全の弟である権左衛門の処遇が注目されるわけです。 小諸転封は元禄15年ですが、長岡元禄分限帳は、元禄何年のものかは不詳です。
--鉄三郎 2008年2月9日 (土) 14:13 (UTC)
槙三左衛門と、槙平兵衛は、槙三郎左衛門重勝の養弟とお考えになりますか?。諸士由緒記の記述は必ずしも明確ではありませんが、槙三左衛門と、槙平兵衛は別家召し出しのように解釈もできます。逆に槙三郎左衛門重勝が別家召し出しであったかもしれません。槙三郎左衛門重勝・槙三左衛門重武の家督相続に関する記述も明確ではなく、お茶を濁すようになっています。数種類の文献を読み合わせるおぼろげながら、事情が見えてくるといようなことになっています。何か意味があるとお考えになりますか?。明確に記述したら、まずかったのでしょうか?。また査読できない文献を含めての話しになって恐縮ですが、真木小大夫系の家譜や家伝には、真木越中の出奔記事が残っているのに対して、槙三郎左衛門重勝・槙三左衛門重武等の系図・家伝にはそうしたことがまったく記述されていないのも何かを暗示しているのでしょうか?--鉄三郎 2008年2月23日 (土) 15:10 (UTC) 槙平兵衛家の家系が、槙三左衛門家の弟の家系であると、各種系図にあるのが興味深いです。なぜ真木三郎左衛門の四男家系などといわないのが不思議ですね。--鉄三郎 2008年2月24日 (日) 11:10 (UTC)
あなた様の御推察の通り、真木越中・善兵衛とは別流をなす牧野氏家臣の真木氏があったようです。「歴史と旅、武田信玄総覧」(秋田書店)と、長谷寺発行のパンフレットが一般に広く査読できる文献だと思います。あまりボリュームもないので、書くことも少ないないのですが、三河真木氏と、真木氏 (牧野家重臣)のほうに記述させて頂きます。--鉄三郎 2008年2月25日 (月) 18:17 (UTC)
槇権左衛門の件
☆理由
(槇新助重勝は真木越中守の子ならば真木三郎右衛門家養子入りで血統的にも真木・槇両家を代表する存在になったと思われ「先法槙家」の位置もこの時期に確定したといえる)
以上です。--故城一片之月 2008年2月10日 (日) 03:38 (UTC)
当主が幼少・長期病床の場合は、家禄本給の給付が受けるが、出仕できない状態になります。これは不忠になると考えられ、かわりに誰かを出仕させます。大名・旗本の当主とは、この点が異なります。誰かとは部屋住み身分の弟であったり、叔父であったりするわけです。時には養子に出た者を呼び戻すこともあったようです。中継ぎとして弟や叔父を出仕させ、彼らに男子ができる一方で、長期病床の当主にも幼少の男子がいたり、幼少当主が成長して、後に男子ができた場合は、ミニお家騒動になりかねない状態となるわけですが、このような場合は、新恩がなくとも、本家の家禄を割いて分家を分出させました。このほか当主が婿養子で、長男が妾腹・次男が正室の男子というようなときも、新恩がなくとも、本家の家禄を割いて分家を分出させました。但し小禄の場合は、分家の分出ができない場合もあり、このような場合は、家格を落とすなどの措置がとられることもあったようです。以上は歴史学の大学講師に口頭で質問したところ一般論として、回答を頂きました。 槇内蔵介家は、権左衛門のために分家の分出は行わず、小諸に跡式があったので、もっけの幸いで、これを継がせたことは疑いの余地がないと思います。新恩なしの分家の分出は、惣領家の当主の本音としては、極力おこないたくなかったはずです。江戸時代後期の史料を読むと、同族間で繰り返しこうしたことがおこなわれていたことがわかります。長岡中央図書館に家老・先法未満の上級家臣の家柄でのうち、何家かの家系図の写本が残っていますが、それを閲覧しても、そうした動きがわかります。 従って、槇権左衛門の枠は、長岡には存在しないというのが、私の結論になります。--鉄三郎 2008年2月11日 (月) 16:46 (UTC)
困った話し豊川市図書館にある資料のうち、私の主観では珍説・奇説あっても、一般に査読できれば掲載すべきか悩みます。地元には結構、有名な郷土史家が出版しているいい加減な書籍があります。いま氏名は失念してしまいましたが、故人になられたある著名な郷土史家は、生前に立派な体裁の郷土史の書籍を出版されました。ここから孫引きしたと思われる書籍・雑誌・パンフレットなどが次々に登場しています。例えば「牛久保城は城攻めされた記録はない。」とあちらこちらに書かれた文章が出回っています。 某郷士の御子孫は、地元の有力者。このかたは、地元新聞に郷土史の記事を寄稿される方に、一席設けて、自分の先祖をよく書いてもらうおうと誘導する。贈収賄罪が成立しないから、やりたい放題ですよ。地方新聞の地元記事に、郷土史の一ページとして紹介されれば、少なくとも一般人を納得させる典拠情報になります。名指ししてここに書いて、名誉毀損で訴えられるといけないので、やめておきますが、地方都市や田舎では、あちらこちらでやっているはずです。--鉄三郎 2008年2月9日 (土) 07:52 (UTC)
私はオタスケマンとは、まったく関係はありません。今回は貴殿の忠告に従います。--おたすけまんを助ける会 2008年2月28日 (木) 15:56 (UTC) 実は来年度から、外国に赴任することになりました。出発は4月中旬から、5月上旬ごろを予定しています。そこでお別れが近いことのご挨拶にまいりました。お別れと言ってもネットで、どこからでも、このページにはアクセスできるわけですから、たまには遊びにこようと思っています。しかし赴任先は、先進国ではないので、ネット環境は不明です。まだしばらくは編集に参加するつもりです。長い間、ご厚誼をたまわりありがとうございました。--鉄三郎 2008年3月15日 (土) 13:02 (UTC) |
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