利用者‐会話:Unamu/過去ログ5
あなたのフィードバックが重要です:ウィキメディア財団のグローバル調査ご協力への最後のお願いこんにちは。ウィキメディア財団の実施する調査が2017年2月28日 (23:59 UTC)'をもって終了するという最後のお知らせをしに来ました。 この調査は様々な言語で実施されており、所要時間は20分から40分の間です。 調査に参加してくださるようお願いします。 もしすでに本調査にご回答をお済ませでしたら、入れ違いをご容赦ください。ご協力、まことにありがとうございました。 本アンケートについて 本プロジェクトについてのさらに詳しい情報は、「このプロジェクトについて」でご覧いただけます。また、「よくあるご質問」もお読みください。 この調査は第三者機関が運営しており、個人情報に関する宣言に準拠します。 さらにお手伝いを必要とする場合、または本調査に関する今後のご連絡の停止 (オプトアウト) をご希望の場合は、利用者にメールを送る機能を通じて、 User:EGalvez (WMF) まで電子メールをご送信ください。 ウィキメディア財団について ウィキメディア財団はこのサイトを速く、安全で、アクセス可能にするよう、ソフトウェアと技術の両面で取り組むことで、あなたを支援しています。また、ウィキメディアのプログラムと構想は世界中で、アクセスを広げており、自由な知識をサポートしています。 皆さまのご協力に心から感謝いたします。 --EGalvez (WMF) (talk) 2017年2月23日 (木) 06:58 (UTC) お詫びこの度は、さまざまなご指摘とアドバイスをありがとうございます。理解不足のまま編集しましたことを、深く反省しております。申し訳ありませんでした。 今後、より良い編集ができるように努めて参ります。--Kakao0122(会話) 2017年3月20日 (月) 01:37 (UTC) 金輪五郎の項目の件について金輪五郎の項目が削除依頼になって1ヶ月以上立ちますが、全く事態が進展しません。 個人的には、他の資料を見ても同じような表現なので著作権違反とは言えないと思っています。新しい資料を集めたのですが、更に編集をしようと思っても気が引けます。 いずれにせよ今後、削除依頼のページが追加書き込みされるとは思えませんので、削除するなり削除依頼を取り消すなり何らかのアクションを取って欲しいと思うのですが。--らんで(会話) 2017年3月27日 (月) 15:00 (UTC)
田江岑子を進行しましょう。間違って消去してしまったようなので再度同文を書き込んだ。 Unamu 様 「あっちの方はメールのコメントを書き込む欄が見あたりません」とはここのメール欄のことでした。(4月7日になって 私の会話ページ(利用者‐会話:Unamu)に書き込むのかなと思って。ここに書き込んでみる)。さてご教示頂いたこと下記のとおり「歌風」欄に書き加えましたのでよろしくお願いいたします。 更にその特異な詩情を持つ田江の短歌とその歌集の経緯についてもう少し川村杳平の論述を参照しておこう。(p.498) 「『鑿を研ぐ泉』は『真赤な夕陽を砕く』に次ぐ、田江の第3 歌集であり、第1歌集の3年後、昭和53年1月に短歌新聞社から出版された。前の2歌集は私家版(緑の笛豆本の会)限定刊行であるから、その内容、構成から見ても歌人田江峰子を歌壇や一般読者に強く印象づけたのは、この第3歌集であったろう。 第4 歌集『われやみちのく』には50歳代前半の270余首が収められている。第3歌集までと異なり3年半という短い制作期間の作物だけに、田江の短歌作者としての特徴が凝縮され、濃厚な血液が一気に噴き出したような衝撃がある。昭和56(1981)年頃のもっとも脂のの乗り切った時期と見てよい。東京の雁書館、あの冨士田元彦のもとから出版された事情は詳らかではないが、先の『鑿を研ぐ泉』(昭和53年、短歌新聞社刊)によって歌壇に登場した田江は、冨士田の慫慂があって歌集をまとめる気になったのかもしれない」。 なお下記に田江の代表歌数首と歌集の「あとがき」を掲げておく。 父は逝き幼年われは泣かざりし美しと思う花いくつ覚えしか (『美しと思う花いくつ覚えしか』) 美しきかなしみあらばさみどりの葉かげに垂るる滂沱たる藤 〃 母の織る筬の音はもきこえきて糸繰車まわるかげろう (『真赤な夕陽を砕く』) わがめぐりに鳴く鴉たち一斉に翔び立ち真赤な夕陽を砕く 〃 或る日わが産声高く生るるを杳き泉に鑿を研ぐ父 (『鑿を研ぐ泉』) 風ねむる午後と思えど待つこころ桔梗の花のいろほど冴えて 〃 言葉とうことば殺していちまいの白磁の皿に置く銀ナイフ (『われやみちのく』) 岩床をすべらかにゆく水に逅うあえばきわまるわが秋の川 〃 罪問わば罪を餌食に生きゆかんおみなの血をばやしなう夕日 (『紫陽花や杏あやめの雨の日日』) ああ われの生きてあること陸奥に雪降りくれば雪をのむ水 〃 ・あるものは象徴であり、或るものは観念のドラマかも知れない。しかし、まこと私の全霊である。 (第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の著者「あとがき」より)。 ・今更ながら、詩歌でしかないものに改めて付け加える言葉は浮かんで参りません。 (第13歌集『北上山地 夢見さす詩歌』の著者「あとがき」より)。 Unamu 様 追加で川村杳平の諸説を補足しておきますのでよろしくご理解をお願いいたします。 なお上記の『われやみちのく』についての川村杳平の論述はなお2頁にわたって続き ①まず田江自身の「後記」を6行にわたって引用し、その文意の真意について物足りなさを述べている。②もう一点は巻末に付された長文の増谷龍三の「解説 田江岑子作品論」をなぜ併録したのかと疑点を呈している。 以上については田江自身の『螢観る人 小田観螢』の掲載記事と現代歌人文庫の『冨士田元彦短歌論集』によって若干の説明の補足をしておきたい。(川村杳平はご存じないのだ)。 増谷氏はこの第4歌集のみならず続く第5歌集の『紫陽花や杏あやめの雨の日日』にも「解説〈水〉と〈死〉と〈愛〉と」のこれまた長文の「田江岑子論」を書いている。田江氏と増谷氏は田江氏の別の著書『螢観る人 小田観螢』によると北海道で1960年以前からの歌友であったようだ。(田江氏のこういう経歴が全く不明なのだ)。同書に北海道歌壇で著名な『新墾』の「小田観螢との7人歌話会の写真」が載っていて若き田江氏と増谷氏が写っている。(経歴に1961年 新墾社に入社とある)。 この増谷龍三について前記の『冨士田元彦短歌論集』のなかの「七十年代の運動体ー再びシンポジウムの季節ー」(p.172)の「現代短歌・北の会」の発足のなかで再三にわたり言及されている。1975年8月23、24日冨士田氏はこの結成総会と記念シンポジウムに出席し主導的な役割を果たしている。この時おそらく北海道青年歌人会の幹部だった増谷氏とは親しく話しているはずだ。(簡単に書いたが冨士田氏特有の詳細な記事だ)。その縁がおそらく田江氏に及び『われやみちのく』の雁書館の編集発行人 冨士田元彦に繋がっていることは確かだろう。 Unam 様 (4月4日20時45分) Wikiの「田江岑子」に”変な晒しマーク”がついてそろそろ10日ですがご検討は進んでいますか。いつ頃解決するのかご連絡を願います。また投稿以来の疑問点、要望、提言を下記に取り纏めましたのでご賢察の上ご回答頂けば幸甚です。 ①当初の投稿時にまず所属が田江氏と同じ「未来」の「河野愛子」と②同じ岩手県出身の「板宮清治」を模造して経歴、代表歌などを書いたことは既にお伝えしましたが、今回の「田江岑子」がそれがなぜいけないのかの返答をまだ頂いておりません。アッチがいい理由はなんですか。 ②私の初稿が「作者あとがき」と「代表歌」が著作権に抵触するというご指摘でいきなり抹殺され「客観的資料」による立証が必要とのことで『鬼古里の賦-俳人歌人論集-』川村杳平を引用し説明を尽くしました。ご納得が行かないようなのでさらに追加の引用、説明をいたしました。その上さらに昨日ノート欄に冨士田元彦の『冨士田元彦短歌論集』(国文社歌人文庫)によって冨士田と増谷龍三(田江岑子歌集第4,第5歌集の解説者)との接触についても説明をしておきました。またご教示の「歌風」における代表歌、作者のあとがきとそれらのバランスをとる”主従関係”という記述方法もそれなりに適用したつもりです。拙ければ多少は書き直してください。 ③昨日も申し上げましたがWikiで「歌人」を開いたときに当人の代表歌が一首も見当たらないのは全く殺風景でなんともガッカリなものです。まして当の歌人は詠歌が生命なのです。あなた方、ただの管理者(創作者でない者)にはわからないかも知れない。これは日本の短詩形文学の表現としての特筆すべき検討事項でしょう。この点よくよく考えてほしいと思います。(以上) 石川民雄--Dirou(会話) 2017年4月7日 (金) 13:06 (UTC) 広島東洋カープの緒方監督時代の記載に関しての協力要請以前我々が関わっていた広島東洋カープの緒方監督時代の2016年の記載が2016年の広島東洋カープのページにて無断転載されてしまったため現在、2016年の広島東洋カープのノート内で審議をしています。大変心苦しいと思いますが審議に協力してはいただけないでしょうか?ご返答お願いいたします。ミラー・ハイト氏が発見し告知してくれました。--レーヴェ(会話) 2017年4月10日 (月) 05:45 (UTC) Onemanshow氏の投稿ブロック依頼の審議にたいしての協力要請前回でも問題になったとおり広島東洋カーブのページ内の緒方監督時代の2016年度の記載及び2016年の広島東洋カープのページに対しての無断転載を引き起こした問題でミラー・ハイトさんの再三の通告と警告を無視し今現在も返答も無く無視し続け他のページへ記載し続けているため明らかに悪質な問題としOnemanshow氏への投稿ブロック依頼及び審議を申請いたしました。大変申し訳ありませんが記載に関わった関係者として審議に協力をお願いししたく連絡にまいりました。詳しくはここWikipedia:投稿ブロック依頼/Onemanshow 審議とWikipedia:投稿ブロック依頼 2017年4月の利用者:Onemanshow(会話 / 投稿記録 / 記録)の記載にてよろしくお願いします--レーヴェ(会話) 2017年4月12日 (水) 15:05 (UTC) ご指摘について先日はご指摘いただきありがとうございました。特筆性のない記事については私の注意不足によって起こってしまったことと身をもって猛省している所存です。今後は同様のことには気を付けてまいります。--Paraight(会話) 2017年4月13日 (木) 07:22 (UTC)Paraight お礼建築史家関係のつたない立項への加筆・補強をありがとう御座いました。おかげさまで私の知識も少し増えました。Ktmchi(会話) 2017年4月13日 (木) 20:41 (UTC) お詫び先に依頼サブページを作ってから{{subst:Sakujo}}を貼ろうと考えていて、競合させてしまったようです。手順通りにやらず、すみませんでした…。--Tkmkz (talk) 2017年4月23日 (日) 01:40 (UTC)
削除に関する方針をご確認下さいおそれいりますが「古川正己」の記事に対する即時削除は対処できかねます。以前お伝えしたとおり、即時削除するにあたって何を「テスト投稿」とみなすかは即時削除の方針に挙げられており、これに該当しないものは即時削除できません。この機会に削除の方針をはじめ削除に関する方針やガイドラインを再確認し、適切に依頼されますようお願いします。なお確認の時間として一時投稿ブロックを行います。--Bellcricket(会話) 2017年5月15日 (月) 03:30 (UTC)
ダリアをどうぞ!![]() Wikipedia の使用方法がよくわからず、お手を煩わさせ誠に申し訳ありません。まずは感謝の意を伝えさせていただきます。 近藤達夫の要約欄に「近藤達夫の依頼による」と安易に書いてしまいました。 近藤達夫氏の写真を使用するにあたり、ご本人から許可を頂いただけです(著作権及び肖像権の問題が絡むと考えた為。書面による許可を頂いています。)。近藤達夫氏とは時折、飲食店でお会いすることはありますが、血縁関係、師弟関係、金銭関係などの利害関係は全くありません。一度書いた要約欄は変更不可能のようですが、このような場合どのようにすれば良いのでしょうか。 まだまだ分からない事ばかりですので、今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。 Y.Matsuura 1965 Virgo(会話) 2017年6月1日 (木) 16:15 (UTC)
お礼
川崎公害の参考文献について現代日本の環境問題と環境政策 単行本 石橋 春男 ・中藤 和重・小塚 浩志が有力です。ネット検索の情報結果では 図書館での確認が来週くらいになってしまう。 本のタイトルに『Ⅳ市民とともに公害とたたかう』 ⇒このタイトルがある本です。--平成専門(会話) 2017年8月9日 (水) 22:36 (UTC)
ご指摘、ありがとうございます。![]() 此の「有川矢九郎」をウキペディアに寄稿したのは、小生です。 小生は、有川矢九郎の兄の有川十右衛門の玄孫にあたります。 矢九郎は、十右衛門の弟で、父親の貞馨の弟にあたる「貞幹」の継目養子となっています。 これらは、小生が祖父から遺された「有川家累代の家継図」に記載をされた内容を寄稿しました。 矢九郎の生年月日も多くのウェブサイト等では「天保2年9月14日に誕生。」となっていますが、 有川家累代の家継圖によると、文政12年(1829年)己丑(つちのと うし)9月14日生まれとなっており、享年78歳から数えると、文政12年生まれが正しいと思っております。 グレゴリオ暦1829年10月11日生まれ。 始 二之介、後 矢九郎。 実名は、貞實(さだみ)。 明治41年10月3日死去。享年78歳。 鹿児島大学図書館の古里文庫の中に「貴重書として、伊勢家文書」が多数、保存されております。 その中にも、有川家の由来を含めて、保存されております。 鹿児島大学法文学部五味教授が寄稿した、鹿大史学及び鹿児島女子短期大学の紀要等にも記載があります。
貞辰美誌(会話) 2017年9月7日 (木) 02:55 (UTC)
ベビーウェアリングの即時削除についてWP:CSD#G9としてベビーウェアリングの即時削除を依頼されておりましたが、この記事には自著作物の持ち込みの可能性があるため、適用対象外です。こういう場合、削除が必要であれば代わりに削除依頼を提出してください。今回について言えば、自著作物持ち込み手続きのお願いをしてからほとんど時間が経過していないことを考えて、少し待つべきかなと私は思います。--赤の旋律/akasen(talk) 2017年10月15日 (日) 07:47 (UTC)
テンプレート除去のお願いです
『反デューリング論』の節項目に関して節項目に関してご指摘ありがとうございます。この点についての貴殿のお考えを承りました。節の立て方についてはご指摘に従った方針で作成しようと考えます。なお、本項目に関しては執筆作業の途中であるため、思案の過程で試行錯誤を重ねました。ご指摘のほど感謝しておりますが、核心の内容部分も作成も含めて何卒ご寛恕頂きたいと思っております。Libman1225(会話) 2017年11月22日 (水) 15:15 (UTC) ご指摘いただきありがとうございます。ご指摘いただいた北京(都市)についてですが、既存の市轄区としての北京ではなく、都会としての北京についての記事を書く予定でございます。 まだ未熟な記事であり、誤解を招いてしまったかもしれませんが、ご理解をお願いします。 ちなみに、東京についても、地方公共団体としての東京都と都市としての東京の二つの項目があります。 --YaoLong2020(会話) 2017年12月2日 (土) 06:00 (UTC)--YaoLong2020(会話) 2017年12月2日 (土) 05:59 (UTC)
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