利用者:のりまき/予備作業室1
凍雪篩雪図(とううんしせつず)は、浦上玉堂が制作した南画である。作者浦上玉堂の代表作とされ、1965年に国宝に指定されている。川端康成が入手、所有したことでも知られている。 製作経緯50歳で鴨方池田藩を脱藩後、晩年にかけ独自な画趣を展開するようになった玉堂であるが[1]、本作も60代末期(19世紀初頭)の作品と推定されている。 玉堂の画には、清朝の画家李珩の画集を自由模写したものがあり、本作もその画帖のうち凍雲欲雪図に想を得て描かれたと考えられている。[2] また、玉堂は醉作を好み、ほろ醉いと覚醒を繰り返しながら制作したといい、本作も「東雲篩雪、玉堂栞士醉作」とあるように酒を飲んだ上での作品であるという。[3] 特徴本図には図の左上の位置に「東雲篩雪 玉堂栞士酔作」と記されている。そのための本図の解釈の中には、この「東雲」を文字通り「東雲(しののめ)」と解釈するものと[4]、「東雲」を「凍雲」に通ずるものとみなしこれを冷たくたれこめた雲と解釈するものとがある。[5] 前者の場合、本図は、明るく楽しいイメージを描いたもの、夜明けを描いたものと解され[6]、後者の場合、玉堂の心象風景としての音ひとつない幽谷の寂寥感が描き出されたものとされる[7]。 ここで描き出されている場面についても複数の解釈が存在する。 「東雲」を東雲(しののめ)と解釈し夜明けを描いたものとするものは、岩の陰のそばにいる人物や、橋梁を渡り終わらんとする人物など不複数の人物があたかも自然の陰であるかのように描かれていると評価する。[8]また、「東雲」を「凍雲」、すなわち冷たく重くたちこめる雲とみなす立場では、世界の中のすべてが深い油井につつまれ、わずかに枯葉を暗示する朱色が配置されているとみなす。[9] 川端康成との関係この作品は、文豪川端康成が購入したことで知られる。1949年(昭和24年)、ペンクラブ会員とともに広島・長崎を訪問した帰りの京都で、画商・藪本を通してこの作品が売りに出ていることを知った[10]。川端は前に画集の写真を見たときから、この絵を気に入り[10]、福井県小浜市へ当初の所蔵者のもとを訪れた。所蔵氏は「戦争で焼けた」「また夏にお越し下さい」などといい、その際は見ることがかなわなかった[11]。その後、京都の画商に売りに出されていることを知った川端は、朝日新聞社に「十万円」を借りて購入した[12]という。
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