利用者:のりまき/第十三作業室三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日 - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。
幼少時から上京まで誕生三宅正一は1900年10月30日に岐阜県恵那郡静波村馬木(現明智町)に父、三宅弁次郎と母たつの間の長男として生まれた。戸籍上の誕生日は1900年11月28日であるが、これは父、三宅弁次郎が盛岡に馬の買い出しに行っている際に誕生したため、出生届が約1月遅れとなってしまったことによる[1][2][3]。三宅正一の母、たつは後妻であり、先妻との間には異母兄の伊三郎、異母姉のひさが居た[4]。後に同母の兄弟としてまつ、はる、なるの三人の妹、弟の喬、寅三、進午、秀雄が生まれることになる[5][6]。正一誕生時には父母、異母兄姉、祖父母の他、祖父母の子どものうち数名が同居しており、さらに使用人や居候の家族も同居していたため、20名を超えた人たちが同居生活を営んでいた[4][7][8]。 三宅家の祖先は児島に住み、児島高徳が同族であったと伝えられている[9]。その後、1564年(永禄7年)に三宅助大夫之通が三宅家の祖として馬木に定着し、1764年(明和元年)には三宅正一の家の祖先に当たる三宅重定が本家(ほんや)から分家して新家(あらや)を創設したとされる[10]。なお近隣には本家の他、正一の実家である新家など本家から分家した6家系の、計7家系の三宅家があった[11]。 三宅正一の父、弁次郎は1864年(元治元年)に生まれた[10]。明治維新という時代背景の中、学問を志すも、父母が病弱であり、しかも13人の兄弟姉妹の長兄として家を支えなければならなかったため上京を諦めざるを得なかったが、叔父にあたる浅見與一右衛門とともに岩村電気軌道事業に携わるなど、地域の多くの事業に参画した[12]。また浅見與一右衛門は1882年(明治15年)に板垣退助を岩村に招き、演説会を開催した。弁次郎は演説会の実施に向け、浅見與一右衛門のもとで活動するなど自由民権運動に参加した[1][13]。1905年(明治38年)には静波村の村長に就任し、1945年(昭和20年)に没するまで数年間を除いて30年あまり村長を務め続けた[14]。 幼少時から中学校入学まで三宅正一は3歳の時に妹まつが誕生した際に、家族や使用人、居候らを含め20名以上が同居していた三宅家の状況から、大家族の中では十分に育てられないとのことで岩村町にある母の実家に預けられることになった。その後岩村町の小学校に入学し、小学校3年まで過ごすことになる[15][16][17]。小学校4年時に、兄の伊三郎が中学校に入学して寄宿舎生活になったため、正一は実家に戻ることになった[18]。実家に帰った正一は、毎日下校後に新聞を明知町まで取りに行くことが日課となった。これは村長であり実業家でもあった父弁次郎は多くの新聞を購読していたが、実家のある静波村は郵便とともに新聞が配達されておりどうしても翌日配達となってしまうため、弁次郎の子どもが新聞を明知町まで取りに行くことになっていたためである。このことにより正一自身も新聞を購読する習慣がつき、通学での往復に加え、明知までの道のりを毎日歩くことにより足腰が頑健となり、三宅正一本人は後日、政治活動に進むことになる自分の財産となったと述べている[19]。 小学校を卒業した三宅正一は岐阜中学に進学する。自宅通学は不可能な距離でもあり、進学と同時に正一は寄宿舎生活となり実家を離れた[20][21]。中学時代、三宅正一は新聞購読と柔道部の活動に熱中した。正一が読んだ新聞は主に新愛知と名古屋新聞であった。特に新愛知の桐生悠々の連載、名古屋新聞の小林橘川の論説を熱心に読んだ[22][23]。柔道部は中学の一年先輩であった和田巌が正一を柔道部に誘い、和田の同級生の柔道部員には平野力三がいた。柔道部での正一は5年生の時には大将を務め、他の中学との対抗試合などで活躍した。三宅正一本人によれば、岐阜中学の柔道部で根性が鍛えられたという。また和田と平野は後に正一が進学する早稲田大学で建設者同盟の同志となり、中学時代の和田と平野との出会いは三宅正一が農民運動に進んでいくきっかけとなった[22][24]。 岐阜中学時代、正一は日本力行会の永田稠の講演を聞いて感動し、中学卒業後は東亜同文書院か東洋協会植民専門学校に入校して海外で活躍したいと考えた。しかし兄の伊三郎からの将来的に海外で活躍したいと考えるのは良いとしても、中学校時分の考えで将来を決めてしまうのは拙速であり、まずは普通の大学に入り、それから進路を決めても遅くはないとの忠告を受け入れ、早稲田大学政経学部の予科を受験することになった[25][23]。 脚注注釈出典
参考文献
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