利用者:ワーナー成増/sandbox

利用者:ワーナー成増/sandboxの履歴が非常に長くなったため、履歴を分離しました。初版(平成25年1月20日 (日) 02:51)から平成27年4月16日 (木) 00:45まで、4757 版の履歴は利用者:ワーナー成増/sandbox/history20150503に保存されています。

利用者:ワーナー成増/sandboxの履歴が非常に長くなったため、履歴を分離しました。初版(平成27年5月3日 (日) 01:07)から 平成29年2月15日 (水) 23:55まで、4504 版の履歴は利用者:ワーナー成増/sandbox/history20170216に保存されています。

利用者:ワーナー成増/sandboxが非常に長くなったため、sandboxを分離しました。初版(2017年2月16日 (木) 07:36‎)から 2018年2月22日 (木) 00:00‎まで、872 版は利用者:ワーナー成増/sandbox/history20180222に保存されています。

利用者:ワーナー成増/sandboxの履歴が非常に長くなったため、履歴を分離しました。初版(2018年2月22日 (木) 00:42‎‎)から 2022年6月16日 (木) 23:09‎まで、4,451版は利用者:ワーナー成増/sandbox/history20220616に保存されています。

利用者:ワーナー成増/sandboxの履歴が非常に長くなったため、履歴を分離しました。初版(2022年6月16日 (木) 23:23 (JST))から 2024年5月2日 (木) 22:58(JST)まで、4,182版は利用者:ワーナー成増/sandbox/history20240503に保存されています。

話題追加 サブページ

映画の入場税

  • 1938年(昭和13年) - 日華事変に伴う大日本帝国の財源不足を補う目的で、地方税から国税に移管、観覧税から入場税へと名称変更も行われた[1][2]。入場料金23銭以上税率10パーセント[1]。23銭未満、非課税。
  • 1947年(昭和22年)
    • 4月1日 - 入場料金1円以上、税率100パーセント[1]。1円未満、非課税。
    • 12月1日 - 入場料金3円以上、税率150パーセントに増税[1]。3円未満、非課税。
  • 1948年(昭和23年)
    • 8月1日 - 入場税の地方移譲[3]。税率150パーセント。
  • 1950年(昭和25年)
    • 3月1日 - 税率100パーセントに減税[4]
    • 12月1日 - 入場税の滞納・脱税が多かったので、東京では票券(チケット)を当局が映画館に交付するようになる[5]。大阪は翌年8月1日から[5]
  • 1953年(昭和28年)1月 - 税率50パーセントに減税[6]
  • 1959年(昭和34年)8月 - 入場料金70円以下税率10パーセント、100円以下20パーセント、101円以上30パーセント[6]
  • 1962年(昭和37年)4月 - 一律10パーセントに減税[7]
  • 1973年(昭和48年) - 入場料金1000円以下5パーセントに減税[8]
  • 1975年(昭和50年)4月 - 入場料金1500円まで無税、1500円超は税率10パーセント[6]
  • 1985年(昭和60年)4月 - 入場料金2000円まで無税に変更[6][9]
  • 1989年(平成元年)4月1日 - 消費税導入に伴い廃止される[6]

出典

  1. ^ a b c d 斉藤 2009, p. 54.
  2. ^ 入場税(にゅうじょうぜい)とは”. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2016年12月26日閲覧。 “1938年(昭和13)に国税に移管され、名称も入場税に改められた。”
  3. ^ (株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団情報資源センター. 2020年12月14日閲覧。 “8月1日 酒消費税・電気ガス税創設。入場税地方移譲。”
  4. ^ 斉藤 2009, p. 55.
  5. ^ a b 斉藤 2009, pp. 55–56.
  6. ^ a b c d e 斉藤 2009, p. 56.
  7. ^ 谷川義雄『年表・映画100年史』風濤社、1993年5月、140頁。ISBN 4-89219-113-2 
  8. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月、312頁。ISBN 978-4873767550 
  9. ^ 「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1986年昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、128頁。 

2023年の活動

概要の修正

  • 2本の主演映画 - 全角数字を半角数字に修正。2本の主演映画
  • WP:TAIGEN - 大ヒット→ヒット
  • 何れも - 常用漢字音訓表にない読みなので、使用するなら「いずれも」が正しい。
  • MOS:INTRO
    • 「翌1981年は2本の主演映画が公開され何れも大ヒットとなる。」もったいぶった表現。百科事典であるWikipediaにもったいぶった表現は不要。
  • 『ねらわれた学園』がヒットしたと書きたいならば、たのきんスーパーヒットシリーズ第2弾『ブルージーンズ メモリー』の併映だったことも書かないとフェアではありません。B面の『次郎長青春篇 つっぱり清水港』が大ヒットとは普通は言いません。A面の『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』が大ヒットと言います。『ねらわれた学園』は純粋なB面というより、両A面に近かったと想像はしますが、出典がなければ書くべきではありません、少なくとも導入部(概要も含む)には。
  • WP:LEAD#強調は適切に
    • 重要な情報は、記事の導入部以外の部分(つまり、本文)で扱われていないなら、導入部(概要も含む)でも取り上げないようにすべきです。
  • 『ねらわれた学園』と『セーラー服と機関銃』はヒットのレベルが違うので、「いずれも大ヒット」のような同列扱いはできません。『セーラー服と機関銃』(23億円)は1982年当時の歴代邦画配収ベスト4位になる映画、『影武者』(27億円)『八甲田山』(25億円)『復活の日』(24億円)に次ぐヒット作品。『ねらわれた学園』は、たのきん映画のB面で12.5億円。
  • 薬師丸に魅力を引き出した監督の扱い
    • 『セーラ服と機関銃』や『探偵物語』で知られる作家の赤川次郎が相米慎二と澤井信一郎の2人が薬師丸の魅力を引き出したと評価している。このことに從った概要にする必要がある。具体的には、相米慎二と澤井信一郎の監督名は概要に記述するが、他の監督(例えば、大林宣彦監督、深作欣二監督、森田芳光監督など)の名前は出さないことで、強調することになる。深作監督・大林監督・森田監督の方がビッグネームなのにと思う方もいるかと思いますが、大事なのは「薬師丸ひろ子」の魅力を引き出したことが重要なのです。これが、例えば、原田知世のページなら、大林宣彦監督や馬場康夫監督が明記されるでしょう。

注釈

出典

角川春樹時代の評価節の除去に関して

IP:240b:10:98e0:a000:b4ab:ea94:f90:656c会話 / 投稿記録さんの 2025年1月26日 (日) 13:38時点の投稿に関して、除去を行いました。前半の段落に関しては、下記の様な問題点があると考えています。

  • 角川映画と角川春樹を同一視しています。角川春樹が「映画ジャーナリスト」に対して生意気だと角川映画に対する業績や評判が低くなり、角川春樹が「謙虚」「慎ましい」「控えめ」だったら角川映画に対する業績や評判が上がったとでも言いたいのでしょうか? (私は書くべきではないと思いますが、)それでも、書きたいなら、角川春樹のページの方に書けば良いと思います。
  • 「……といわんばかりだ」とは、名前の分からない誰かが、角川春樹から「既成の映画人に対してお前らのやってる事は古いよ」と感じたということです。つまり、実際には、既成の映画人に対して「お前らのやってる事は古いよ」と角川春樹は音声に出して言っていません。
  • 結局、この文章にはファクト(確かな事実)がありません。最悪、コタツ記事の可能性もあります。

後半の段落に関しては、内田裕也に関して書かれた部分を除去しました。内田裕也「方法論の違う相手であっても、僕は排除しないよ(良い人間でしょと自画自賛)」でしょうか。

  • 〔角川映画は既に大作路線から低予算の2本立路線に方針変更している〕1982年、ロック歌手兼俳優の内田裕也は、インタビューの中で角川映画の映画製作を「金で顔を引っぱたく」行為と批判するが、同時に、日本映画にカンフル剤を投じたと評価もしている。

1982年当時の日本映画産業

1982年5月29日朝日新聞朝刊「討論の広場」欄で「日本映画はどこへ行く」と題して、岡田茂日本映画製作者連盟会長、映画監督大島渚小栗康平映画評論家白井佳夫が参加して討論会が行われた[1]。討論会の趣旨は、映画人口が最盛期の1958年の11億人から1981年に1億5000万人に割り込んだことを受け、白井が「角川春樹のセンセーショナルな大宣伝によってマイナーな娯楽映画を大ヒットさせる商法に屈服した映画業界」などを問題提起して挙げ、長い討論会中、角川映画に関する言及は、角川春樹を支援していた岡田茂は「角川はいま日本で、監督はまずまず揃っているが、これをどうして、いつ当てて、どういう宣伝をして、どうやって金を取るかと、見通しを持ちながら全てのことをちゃんと支配していくプロデューサー」と評価した。大島渚は「角川さんはプロデューサーとしてある意味強すぎて、監督とのバランスが全部とれない。あの人のところで誰が撮ったって全部角川さんの映画になって、監督の映画が全然出ない。これはいいプロデューサーじゃないんですね、結果的には」。白井佳夫は、角川春樹のセンセーショナルな大宣伝によってマイナーな娯楽映画を大ヒットさせる商法、「プロデューサーというのは元々縁の下の人なんですよね。角川さんは十本以上の映画をあれだけ当てた。角川と組んで映画をすることで有名になった監督が二、三人出なきゃ嘘だし、角川によってスターになった女優や男優が五、六人は出なきゃ嘘なんですよね。まあ薬師丸ひろ子というスターが一人出たけども、あとはみんな既成のスター、既成の監督、既成のシナリオライターを使って作っている」などと評した[1]

〔渡辺典子と原田知世がオーディションに合格してから1か月後〕1982年5月の朝日新聞誌上の討論[注 1]の中で映画監督の大島渚は、角川映画は角川春樹プロデューサーが前に出すぎていて、「監督の映画」になっていない欠点があり、彼は良いプロデューサーとは呼べないと指摘している[1]。映画評論家・白井佳夫は、センセーショナルな大宣伝によって「マイナーな娯楽映画」を大ヒットさせているが、既成のスター、既成の監督、既成のシナリオライターを使って作っていて、薬師丸ひろ子以外に新たなスターや監督を生み出せていないと批判した[1]

  • IP:123.255.128.186会話 / 投稿記録さんの投稿文からは、朝日新聞の討論会のメインテーマが、あたかも「角川映画」であるかのように読めます。しかし、実際の紙面を読むと、角川映画または角川春樹に触れている部分を圧倒的に少なく、邦画メジャー(松竹・東宝・東映)に対する改善提案がメインとなっています。
  • 「日本映画はどこへ行く」と題された討論会は、観客数の激減、旧態依然とした経営体質、創造性を軽視する姿勢などの多くの問題を日本映画産業は抱えており、早急な変革が必要であり、時代の変化に対応した柔軟な経営と創造性を重視した作品作りが不可欠であると結論づけている。
  • 小栗康平監督の名前を討論会の出席者として挙げていますが、小栗康平監督は「角川映画」や「角川春樹」に対して、何も発言していません。IP:123.255.128.186会話 / 投稿記録さんは意図していないと思いますが、読者にとっては、WP:PEACOCKになっていると思います。『泥の河』の名監督が「角川映画」の討論会? に自発的に参加しているような誤解を与えかねないと思います。出典に小栗監督の名前があるので十分だと思います。
  • 東映の社長でもある岡田茂は、当時、角川映画の恩恵を受けている立場なので、基本的に角川映画(角川春樹)に対して酷いことを言うはずもなく、参考とはあまりならないと考えるべきでしょう。つまり、除去しても構わないと思います。逆に、角川映画と縁が切れた時点や角川春樹が失脚してからのコメントならば価値があると思います。

注釈

  1. ^ 「日本映画はどこへ行く」と題された討論会は、観客数の激減、旧態依然とした経営体質、創造性を軽視する姿勢などの多くの問題を日本映画産業は抱えており、早急な変革が必要であり、時代の変化に対応した柔軟な経営と創造性を重視した作品作りが不可欠であると結論づけている。

出典

  1. ^ a b c d 岡田茂大島渚小栗康平白井佳夫 (1982年5月29日). “〈討論の広場〉 日本映画はどこへ行く”. 朝日新聞 (朝日新聞社): pp. 12 - 13 

スクリーン

あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ

あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ
受賞対象1年間に公開された外国映画の中から最も素晴らしかった映画・テレビスターを男女10人選出
開催日4月号誌上
日本の旗 日本
主催スクリーン
初回1952年[1]

いわゆる年間人気投票。男優部門、女優部門がある。毎年2月号で募集し、4月号で発表される(以前は3月号募集、5月号発表だった)。

2013年(2012年度)時点でジョニー・デップが2004年(2003年度)から10回連続1位に選出されている。

女優では2011年(2010年度)時点ではオードリー・ヘプバーンが6度連続1位で、今までと合わせると14回1位を達成している。尚、連続ではないもののアンジェリーナ・ジョリーも6度No1に選出されている。

女優・男優の歴代1位は次のとおり。女優と男優の並びが途中で前後しているが出典に従っている。参考として、当該年度に日本公開された映画タイトルと公開年月を追記した。必ずしも受賞に深く関与した作品とは限らないので注意のこと。

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

外国映画ベストテン

スクリーン執筆者・愛読者選出ベストテン
受賞対象外国映画
開催日執筆者は3月号誌上
愛読者は4月号誌上
日本の旗 日本
主催スクリーン
初回執筆者は1955年
愛読者は1951年[14]

毎年3月号で発表。こちらは映画評論家が選ぶもので同じく作品部門、男優部門、女優部門がある。アカデミー賞受賞作が上位に入ることが多く、近年でも『ハート・ロッカー』(2010年度)『英国王のスピーチ』(2011年度)『アルゴ』(2012年度)が作品部門の1位に選ばれている。また3月号では年間洋画興行収入ベスト10も掲載される。作品部門の歴代1位選出作品は次のとおり。

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

2010年代

2020年代

注釈

出典

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya