利用者:七厩拓/sandbox2
根岸町(ねぎしまち)は、宮城県仙台市太白区の町丁。郵便番号は982-0844[5]。住民基本台帳に基づく人口は479人、世帯数は269世帯(2025年4月1日現在)[1]。丁目の設定のない単独町名であり、全域で住居表示が実施されている[9]。旧陸奥国名取郡北方根岸村の一部[10]、仙台市長町字北町・字木場後・字木場東・字新屋敷・字新屋敷前・字宮沢・字鹿除土手の一部[2][3][4]、仙台市根岸町。 地理地勢![]() 宮城県仙台市太白区の北東部に位置し、北から西にかけ越路・茂ケ崎・門前町と、南を長町と接し、東側は広瀬川が流れている。 都市計画法上の用途地域では全域が第二種住居地域に指定されている[11]。また、広瀬川の清流を守る条例(昭和49年仙台市条例第39号)および広瀬川の清流を守る条例施行規則(昭和51年仙台市規則第26号)における環境保全区域のうち、全域が水質保全区域の範囲内であり、北部は第二種環境保全区域にも指定されている[12]。 根岸町の北部にある宗禅寺横穴墓群付近は、地表の厚さ1メートルから2メートルの範囲で黄色火山灰層や段丘礫層が存在し、その下に新第三紀鮮新世末期の大年寺層と八木山層からなる基盤岩層が位置する。大年寺層と八木山層はいずれも河川や浅海性の堆積層で、層中に多くの貝や植物化石を含んでいる[13]。また、根岸町の中央部にある兜塚古墳付近も同様に新第三紀の大年寺層および八木山層を基盤としており、広瀬川によって押し流された砂・礫・泥が堆積した沖積地に立地している。地形分類上では、河岸段丘・自然堤防・氾濫原の各説が存在する[14]。 交通奈良時代ごろに成立した官道である東街道が通っていたと考えられており[15]、 かつては国道4号が地区内を通っていたが、2016年(平成28年)4月1日に仙台バイパスと並行する区間が国土交通省から仙台市に移管されたため、根岸町9-14(根岸交差点)より北は国道286号に、南は宮城県道273号仙台名取線に指定された[16]。根岸交差点は国道286号・宮城県道273号仙台名取線・仙台市道若林76宮沢橋線[17]・仙台市道太白385兜塚線[18]が交わる変則五差路交差点で[19]、日本損害保険協会の調査では宮城県内の事故多発交差点として2017年から7年連続でワースト5に該当している[20]。 地名の由来現在の根岸町の範囲はかつて名取郡根岸村と呼ばれており[10]、経ヶ峯や八木山、愛宕山、大年寺山などの山麓に広がる地域だったことから、「山の根岸を占める土地」としてその名が付いた[21]。 歴史古代縄文時代中期には集落が存在し、根岸交差点付近に存在した根岸遺跡では縄文土器(大木10式)が出土している[22]。 5世紀の中頃になると東北地方南部では新たに古墳を築造する動きが現れ[23]、仙台平野では広瀬川の南側にも古墳が造られるようになった[24]。根岸町地内にある兜塚古墳は5世紀後半の築造とされており、当時は南東に前方部を向けた帆立貝形古墳だったことが調査で判明した。5世紀中頃以降の古墳としては仙台市内で最大規模で、埴輪のほか葺石が存在することから被葬者は首長クラスの人物であったと考えられている[25]。この地域の首長は根岸町を含む郡山低地付近を統括し[26]、裏町古墳・兜塚古墳・二塚古墳・一塚古墳の順に代々首長墓を造営していたものの[27]、転々と墓の位置が移動していることから、それぞれの古墳に葬られた首長は同じ一族によって世襲されたものではない可能性が高いとされている[26]。根岸町地内には現在では失われた古墳も存在し、1822年(文政5年)の『名取郡北方根岸村・平岡村入会絵図』には兜塚古墳の北側に「クマノ」と配された円丘が記載されている[28]。そのほか、兜塚古墳の南側には小兜塚古墳という円墳が存在した[29]。 6世紀末から7世紀にかけては横穴墓が普及し[30]、青葉山丘陵の東端部と広瀬川が接する丘陵斜面には多くの横穴墓が造営された[31]。これらの地域的に近接した横穴墓群は総称して「向山横穴墓群」と総称され、大年寺山横穴墓群・愛宕山横穴墓群・宗禅寺横穴墓群・茂ヶ崎横穴墓群・二ツ沢横穴墓群などが該当する[31]。このうち宗禅寺横穴墓群は根岸町地内に位置し、7世紀後半から8世紀前半まで使用されたと考えられている[32]。1975年(昭和50年)に行われた発掘調査では、宗禅寺横穴墓群から副葬品として須恵器13点や土師器8点、刀子1点が出土し[32]、土器に偏った他の横穴墓群と異なる特徴がみられた[31]。同時期に存在した郡山遺跡の出土品と近似する須恵器も認められることから[33]、これらの土器の供給ルートが一致すると考えられており、郡山遺跡の官衙で活動していた官人やその家族を中心とした人々の墓地であると推測されている[34]。 奈良時代に入ると、畿内から陸奥国分寺や多賀城に通ずる手段として「東街道」と呼ばれる道が形成された[35]。仙台平野内の東街道は岩沼市南長谷の千貫神社や名取市愛島笠島の佐倍乃神社、高舘熊野堂など高舘丘陵の麓を通り[35]、名取川を渡って大年寺山の南麓である根岸へと至っていた[15]。根岸からは愛宕山南麓の七曲坂、鹿落坂を経由して「米ケ袋の渡し」で広瀬川を渡っていた[35]。根岸の地を通る東街道は伊達政宗による仙台開府まで宮城野方面のメインルートとされていた[36]。 『奥羽観蹟聞老志』によると、平安時代の坂上田村麻呂による蝦夷征討では悪玉姫に関して以下のような伝承が残っている[37]。
上記に登場する鏡ケ池は宮沢渡しから根岸に越える道の曲がり角の道端、かつての簡易保険局(根岸町3-14)の土手に存在した。古くは池近くの北西側に観音堂があったといわれており、『奥羽観蹟聞老志』が編纂された享保4年(1719年)時点では桜の老木が1本生育していた[37]。 中世現在の宮沢橋から仙台南高等学校にかけての淵はかつて「鎧淵」と呼ばれており[38]、奥州合戦の際には源頼朝率いる鎌倉勢が藤原泰衡率いる奥州藤原氏の軍勢と激突した地である[39]。文治5年8月12日(1189年9月23日)、前夜の夜営地である舟迫宿を発った鎌倉勢は平泉へ向け北進した。一方、藤原勢は国分原鞭楯(現在の榴岡公園周辺[39])に堡塁を築き、前線を根岸の鎧淵に置いた。藤原勢は大年寺山と広瀬川に挟まれた東街道の隘路を押さえ、鎧淵には大綱を張り渡して左岸に乱杭を立てたものの[38]、鎌倉勢はこれを難なく突破した[40]。その後も進軍する鎌倉勢は国分原鞭楯をも突破し、その日のうちに多賀城へと到達した[40]。「鎧淵」の名称は、前線で戦っていた藤原勢の大河兼任が鞭楯にいる藤原泰衡の本軍に合流しようとした際に、この淵に仕掛けていた川底の綱に足を取られて進まず、小栗重成の矢に射られて討死したという伝承に由来する[41]。 鎌倉時代頃は名取郡のうち北方と呼ばれる範囲に属しており[42]、現在の根岸町から長町・郡山にかけての一帯は粟野氏の支配下にあった[43][44]。『藤原姓粟野家譜』によると、粟野氏は藤原利仁の後裔で、鎌倉北条氏の家臣として粟野泰国が陸奥国信夫郡へ下り、その孫である重直が名取郡根岸へ移り住んだとされている[45]。根岸町地内にある宗禅寺は粟野氏の菩提寺であり[46]、『封内風土記』には文安4年(1447年)に洞雲寺の末寺として粟野遠江守によって開基されたと記載されている[47]。 近世近代行政区画としては陸奥国名取郡郡山村・平岡村・大野田村の各一部にあたり、明治4年7月14日(1871年8月19日)に廃藩置県によって仙台県の管轄に、明治5年1月8日(1872年2月16日)に宮城県へ改称された[48]。1889年(明治22年)4月1日には町村制が施行され、茂ヶ崎村および西多賀村の各一部となった[49][50]。その後、編入によって1932年(昭和7年)までに全域が仙台市となった[51]。 1879年(明治12年)、それまで片平丁大町頭(現在の仙台高等裁判所付近)に置かれていた植物試験所が現在の根岸町地内である長町村字木場東へ移転し、勧業試験場と名称を改めた[52]。これは従前の敷地が狭く植物試験場としての目的を十分に達成することができなかったためであり、3,915円38銭4厘を勧業資金より支出して移転が行われた[53]。1881年(明治14年)7月9日、植物試験所は宮城農事講習所として改組され[54]、さらに 現代![]() 1945年(昭和20年)9月12日、仙台に進駐を開始していた米軍第11空挺師団の先遣隊は、現在の上杉三丁目にあった仙台簡易保険支局庁舎(現・かんぽ生命保険仙台サービスセンター)を全面的に接収する通告を行い、司令部を庁舎に設置した[55]。庁舎が接収されたことにより仙台簡易保険支局は移転を余儀なくされ、仙台市内8か所の学校に業務を分散させた後[56]、同年からは長町字東裏北にあった東北特殊鋼の施設を借り入れていたが、収容人数の観点から依然として分散業務が続いていた[57]。上記を解決するため終戦連絡中央事務局・仙台財務局と交渉が行われた結果、原町小田原字安養寺下の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所を借り入れたが[58]、庁舎の腐食や事務室としての利用度の低さから新庁舎を建設する機運が高まり、長町字新屋敷13番地(現・根岸町3-14[2])を建設地として決定した[59]。1949年(昭和24年)10月25日には郵政省関係者の立会の下に入札が行われ[59]、同年11月2日に工事が開始された[60]。工事が進んでいた1951年(昭和26年)1月17日、火災により3棟のうちの1棟が全焼し、一時的に工事が休止する事態となった。その後、同年7月15日には無事工事が竣工し、8月12日に新庁舎へと移転した[61]。また、移転に先立ち8月8日からは長町郵便局保険局内分室が開局し、郵便・貯金・保険年金業務を取り扱った[62]。 接収され病院として使用されていた保険局旧庁舎は1957年(昭和32年)8月17日に返還されたため、再移転の準備として内部の改修工事に取り掛かり、1958年(昭和33年)6月には長町字新屋敷の庁舎から再移転した[63]。保険局内に設置されていた長町郵便局保険局内分室は同年7月1日に仙台南郵便局新屋敷分室へ改称し[64]、1972年(昭和47年)に廃止されるまで存続した[65]。 1968年(昭和43年)8月1日、長町地区の住居表示実施に伴い、長町字北町・字木場後・字木場東・字新屋敷・字新屋敷前・字宮沢・字鹿除土手の各一部をもって根岸町が誕生した[2]。 1976年(昭和51年)3月、宮城県教育委員会は移転する宮城県農業高等学校の跡地に、翌年度より普通高校を新設することを決定した。これはかつて宮城県内に存在した高等学校の学区のうち、翌年度から仙台市内を2学区に分割することへの対応措置であり、仙台都市圏内の高校進学者増加に対処するためでもあった[66]。当初は仮称を「仙台長町高校」としていたが、既に長町小や長町中があることや生徒を募集する範囲が広く名取・岩沼・亘理に渡ることを考慮し、根岸町や茂ケ崎などの地誌を検討した結果、「仙台市南部に位置する男女共学の普通高校であること」「南は陽に通じる豊かさと積極性を意味し、若い世代の成長発展に通じる意義を持つ」との理由から「宮城県仙台南高等学校」に決定した[67]。 1977年(昭和52年)4月1日、高等学区の新学区制移行と同時に、仙台南高等学校が開校した[68]。開校当初は敷地内にある兜塚古墳の文化財保護の問題や都市計画道路の敷設計画により利用計画の策定は難航したが、旧宮城県農業高等学校の鉄筋校舎を開校後2年間に限って使用し、その間に新校舎を建設した[69]。校章には当時の根岸町周辺に多く生育していたことからイチョウが校木として定められ[70]、校歌の歌詞には根岸町周辺の呼称である「百代の里」というフレーズが含まれている[71]。 1978年(昭和53年)から宮城県は県民の体育・スポーツ需要に対処するため、武道館・ラグビー場兼サッカー場・スポーツ会館・体育館などを有する総合運動場の建設を開始した[72]。建設場所は根岸町地内の仙台南高等学校隣接地[73]、江戸時代の長町木場跡にあたり[74]、当初は仮称を「仙台南スポーツ公園」としていた[75]。公園名は後に「宮城県第二総合運動場」に決定し[76]、1981年(昭和56年)4月に開設された[77]。 年表
町名の変遷
世帯数と人口2025年(令和7年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区小・中学校の学区は以下の通りとなる[78]。
施設![]() 公共
企業・店舗などかつて存在した施設![]() 史跡・天然記念物兜塚古墳→詳細は「兜塚古墳 (仙台市)」を参照
宮城県仙台南高等学校のグラウンド北端、大年寺山東端裾の沖積地に立地する[85]。古墳時代中期の帆立貝形古墳である。 宗禅寺横穴墓群→詳細は「宗禅寺横穴墓群」を参照
根岸のらくうしょう根岸町15-1に所在するラクウショウの大木である。1975年(昭和50年)6月5日に仙台市の保存樹木に指定された[86]。2025年現在の樹齢は約100年、樹高は26.0メートル、幹周は3.3メートルで[86]、広瀬川の堤防脇に生育する[87]。これは宮城県農業高等学校の前身となる宮城農学校が開校した当時の植樹であり[88]、教材として植えられたものである[87]。 交通鉄道鉄道駅はない。最寄り駅は■仙台市地下鉄南北線の河原町駅もしくは長町一丁目駅。 バス2025年(令和7年)4月1日改正時点のバス停留所は以下の通り[89][90][91]。 道路一般国道一般県道都市計画道路
道路愛称路線脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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