利用者:従六位上河内介/sandbox本作長義(ほんさく ちょうぎ / ながよし)は南北朝時代に作られたとされる日本刀(打刀)である。日本の重要文化財に指定されており、愛知県名古屋市の徳川美術館が所蔵している。重要文化財としての指定名称は「刀銘本作長義天正十八年庚 概要刀工および名前の由来南北朝時代に活躍した備前長船派の刀工である長義(「ながよし」または「ちょうぎ」)[注釈 2]の代表作のうちの一振りである。長義は長船派の長光・景光・兼光と続く主流派とは別系統の刀工であり、従来の備前風の作風を基本に相州風の作風も加味した、いわゆる相伝備前(そうでんびぜん、相州伝備前とも)を生み出した刀工とされている[4]。本作も相伝備前の典型作であり、身幅が広く豪壮な姿をしている[5]。 本作長義の名前の由来は、1590年(天正18年)に新刀期を代表する刀工である堀川国広によって、「本作・・・」から始まる計62文字からなる長文の切付銘はが刻まれたことによる。なお、長義本人の手によって元々あった銘は磨上(すりあげ、長寸の刀を短くすること)により残っていない。後述の経緯から山姥切長義とも呼ばれている。 (※中略) 作風刀身刃長74.2センチメートル、元幅は3.3センチメートル[6]。磨上により現在の刃長となっているが、元々は90.9センチメートルの大太刀であったと推測される[6]。徳川美術館では刀剣の研ぎを行っていないため、江戸時代の研ぎの重厚な輝きが保たれている[7]。反りは2.4センチメートルあり、太刀としてみれば浅めである[6]。造込は鎬造(しのぎつくり、平地<ひらじ>と鎬地<しのぎじ>を区切る稜線が刀身にあるもの)であり、棟は庵棟(いおりむね、刀を背面から断面で見た際に屋根の形に見える棟)となっている[6]。切先(きっさき、刃の先端部分)の長さが7.2センチメートルもある力強い大切先であり、表裏の鎬地には、棒樋(ぼうひ、刀身に掘られた太い一本の溝)が茎から切先にかけていっぱいにかき通してあり樋先は上がる[6][用語 1]。 鍛え[用語 2]は、小板目(板材の表面のような文様)に杢目(もくめ、木材の木目のような文様)交じり、地沸(じにえ、平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)がよくついている[6]。刃文[用語 3]は、湾れ(のたれ、ゆったりと波打つような刃文)に焼きの谷がリズミカルに並ぶ大互の目(ぐのめ、丸い碁石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文)で、乱の谷に小乱(こみだれ、直刃の中に刃と地鉄の境目に互の目が混じっている)交じりで華やかとなっている[6][12][13]。帽子(ぼうし、切先部分の刃文)は、表裏ともはげしく乱れ込み尖り心に返る[14]。 茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)長は16.7センチメートルあり、目釘孔は3個[14]。大磨上(おおすりあげ、元の茎を完全に切断し元々あった銘も無くなってしまったもの)であり、茎尻は先一文字(鎬筋から垂直にまっすぐ切り離したようなもの)である[14]。現在茎に見られる銘は前述の通り国広によって追銘されたものであり、指表に「本作長義天正十八年庚刁五月三日二九州日向住国広」の25字、指裏(さしうら)には「長尾新五郎平朝臣顕長所持天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也」37文字が刻まれている[14]。 刀装具本作には金無垢二重鎺が附属している。明治初年に至る一連の蔵帳で一貫して拵(こしらえ、刀身以外の外装)に関する記載が無いことから、綱誠によって購入されてから拵が作られたことがなく購入した時点での白鞘に附属していた鎺(はばき、刀身の手元の部分にとめる金具)であると考えられる[15]。 尾張徳川家では刀身を保管する白鞘を拵の柄と鎺を一体化して彫り出す木鎺という特殊な造りに統一されており、本作についても『御腰物元帳』成立する1745年(延享2年)までの間で、尾張徳川家にて統一された形式である木鎺に作り直されたものと考えられる[16]。ただし、現在まで伝わる白鞘については、江戸時代中期のものであるかは定かではない[16]。白鞘の柄(つか、刀の持ち手部分)には「第壱部第二十三號」と書かれており、鞘の中央部分には「仁一ノ七十九備前國長義御刀磨上無銘長弐尺参寸六分」、物打ち(刀身の中心より少し上側)付近に「延宝五巳年折紙代金拾五枚」と記されている[16]。 脚注注釈用語解説
出典
参考文献
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