利用者:桂鷺淵/下書き12
井上 政重(いのうえ まさしげ)は、江戸時代前期の旗本・大名。1632年に最初に任命された4人の大目付のうちの1人で、幕藩体制確立に功績を残した。特に宗門改役としてキリスト教の禁圧に辣腕を振るったことから「キリシタン弾圧の中心人物」として知られる[3][4]。その一方で、西洋諸科学に深い関心を寄せて日本への導入を図った人物でもあり、西洋(とくにオランダ)との外交交渉に尽力した人物である。 官位から井上筑後守として言及されることも多い。政重は定府の大名であり、領地に居所を定めなかったが、子孫が下総国高岡(現在の千葉県成田市高岡)を居所としたために、高岡藩初代藩主に位置づけられる。 経歴生い立ち天正13年(1585年)、井上清秀の四男として遠江国で生まれる[2]。父の井上清秀は松平家(のちの徳川家)家臣阿部定吉の実子とされる人物で[5]、一時織田家家臣佐久間信盛に属したのち、徳川家家臣の大須賀康高(遠江国横須賀城主)に属したという経歴を持つ[5][注釈 1]。 7歳年長の同母兄井上正就は、早くから徳川秀忠の側近くに仕えており[注釈 2]、のちには永井尚政・板倉重宗とともに「近侍の三臣」と称され老中(「加判の列」)に進んでいる。 なお、正就・政重の母(永田氏)は、徳川秀忠の乳母の一人であったともされる人物で[6]、のちには江戸城中で暮らして「御うば様」と呼ばれたというが、秀忠の乳母であったことには異論もある[注釈 3]。 徳川幕府に仕える慶長13年(1608年)より徳川秀忠に仕え、御書院番士として蔵米300俵を給される[2][注釈 4]。元和元年(1615年)には大坂の陣に従軍し、首級1つを挙げる[2]。 元和2年(1616年)9月15日、徳川家光(当時は竹千代)附きの家臣となる[2]。元和4年(1618年)、蔵米に替えて知行500石を与えられる[2]。元和9年(1623年)には家光の上洛に供奉し(この際に家光は将軍宣下を受ける)、500石を加増される[2]。この頃、政重は書院番士の勤務状況を記録する役目についている[6]。寛永2年(1625年)、目付に就任し1000石を加増された[2]。事務能力や監察の才が評価されたものとみられる[6]。寛永3年(1626年)の家光上洛にも随行している[2]。寛永4年(1627年)12月29日、従五位下・筑後守に叙任[2]。 寛永9年(1632年)1月に大御所秀忠が死去し、家光が親政を開始する。この年にはほかの9人と共に、家光側近の年長者として「五の字の指物」の使用を許されているという[6][注釈 5]。同年10月3日に2000石を加増される[2]。同年12月17日[2]、江戸幕府が最初に大目付(当時は総目付という名称)を置いた際に、その1人となる。相役は柳生宗矩、水野守信、秋山正重であった[3]。 大目付・宗門改役としての活動寛永14年(1637年)島原の乱が発生し、その鎮圧が難航すると、寛永15年(1638年)1月2日に家光は政重に上使として肥前有馬に赴き、松平信綱および戸田氏鉄の相談相手になるよう命じた[10]。現地に到着した政重は、原城攻略のための作戦立案にも関わっている[11]。なお、この頃から政重はキリスト教禁圧とも関わるようになっており、寛永15年(1638年)末に陸奥国仙台、翌寛永16年(1639年)はじめに出羽国最上でそれぞれ捕縛されたキリスト教徒の詮議にたずさわっている[10]。寛永17年(1640年)6月12日、6000石を加増されて合計1万石となり[2]、大名に列した(のちの下総高岡藩[注釈 6])。この年には宗門改役を兼任した[4]。 政重はしばしば西国・長崎に赴き、異国商船やキリスト教禁制に関する裁許を行った[2]。寛永16年(1639年)の紅毛子女の国外追放[注釈 7]、寛永17年(1640年)の平戸オランダ商館の破却、翌寛永18年(1641年)のオランダ商館の長崎(出島)への移転に関する諸事務にあたった[10]。寛永20年(1643年)5月23日、さらに3000石を加えられたが[2]、これはキリスト教禁圧の功績によるという[10]。 正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図・正保郷帳の作成を命じた。寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられたジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)が同年7月、江戸に移送され、政重の小石川の下屋敷に預けられて取り調べを受けた。キアラを転宗させた政重は、その後「切支丹屋敷」にキアラを置いて給与を与え、キリスト教徒取り締まりの助手とした[10]。 1643年、金銀諸島の探索のためにオランダから来航し、南部藩に上陸したオランダのブレスケンス号の船員が捕縛されるブレスケンス号事件が発生し、これをうけて1650年に、バタヴィア側は信任状のない特使を送る事になる。この特使に対して大目付の井上政重が対応した。紅毛流測量術はこのとき伝えられたと一般に考えられている[12]。 退隠嫡男の政次は早世したため、政次の嫡男である政清に万治3年(1660年)7月9日、家督を譲って隠居し幽山と号した。万治4年(1661年)2月27日、死去[3]。享年77。 人物キリシタンの弾圧・取り締まり下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用された。脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る。 西洋科学への関心「元キリシタン」説「自身も元キリシタンであった」とされるが、史料的な裏付けは取れない。 フィクションにおける井上政重遠藤周作の小説『沈黙』では、重要人物の一人として登場する。本作では井上は元キリシタンという設定。 脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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