利用者:桂鷺淵/下書き5豊中グラウンド(とよなかグラウンド)は、大正時代に大阪府豊能郡豊中村新免(現・豊中市玉井町)[1]に存在した多目的グラウンド。豊中運動場とも呼ばれる[1]。野球での使用時には豊中球場とも呼ばれた。1913年に設置されてから1922年に閉鎖されるまで、その存続期間は9年間であったが[1]、現在まで続く高校野球・高校ラグビーの第1回大会が開催されるなど、野球・ラグビー・サッカー・陸上競技など日本の近代スポーツ普及・発展の歴史の上で重要な役割を果たした[1]。 概要1913年(大正2年)、箕面有馬電気軌道(1918年に阪神急行電鉄(通称「阪急」)と改称。現在の阪急電鉄。以下「阪急」)が建設した[1]。豊中停留場(現在の豊中駅)の西に位置し、運動場の正門との間に300mほどの直線道路が設けられた[1]。東西150m、南北140mで、広さは2万1000m2 (=2ヘクタール) あった[1]。800名程度を収容できる観客席を設置しており、赤レンガの塀に囲まれていた[1]。 本格的な総合多目的グラウンドとしては日本初、という主張がある[2][注釈 1]。グラウンドは野球場として、あるいはサッカーのフィールドとして用いられ、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)や、日本フットボール優勝大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会及び全国高等学校ラグビーフットボール大会)の第1回大会が開催され、最初期の会場になった。1周400mの陸上競技トラックを備えた陸上競技場としても使われ[1]、全国規模の陸上競技大会である「日本オリンピック大会」[3]や国際大会も開催された[4][5]。野球場専用ではなかったために、バックネットやバックスクリーン、外野フェンスにあたるものはなかった[6]。 阪急が運営する豊中グラウンドは、「スポーツの殿堂」としての期待とともに[2]、乗客獲得のための[7]娯楽・集客施設としての側面を有していた[2]。一部の観覧席は事前の予約が必要であったものの、入場料は無料であり、競技の邪魔にならなければどこで観戦してもよかった[6]。グラウンドを囲むレンガ塀の高さは1m程度であり、敷地外からも十分に観戦できたという[6]。阪急は往復割引券の販売や宝塚新温泉との連動イベントなど、さまざまな観客誘致策を採った[2]。 開設当初は「東洋一の大グラウンド」とも謳われた豊中グラウンドであったが[8]、大正期にスポーツへの関心が急速に高まっていく状況のもとで[1]、観客の収容や輸送に問題を生じることになった[8]。最寄り駅である豊中駅は梅田駅と宝塚駅の中間にあったために柔軟な輸送計画が立てにくく、イベント開催時には一般乗客が利用できない状況になったという[8]。 1922年(大正11年)6月、阪急は新しい多目的スタジアムである宝塚運動場(宝塚球場)を開設した[8]。宝塚運動場は面積にして豊中運動場の1.5倍で、鉄筋コンクリート製の観客席を設けて2万500人の観客を収容できた[8]。宝塚運動場の開設にともない豊中グラウンドは閉鎖され[8]、住宅地として再造成され、周辺の住宅地と一体になった[9]。跡地周辺(敷地の外側にあたる)には1988年に「高校野球発祥の地記念公園」が開設されている。 歴史開設豊中グラウンドは、小林一三率いる箕面有馬電気軌道の沿線開発施策の中で設けられた施設である[2][注釈 2]。グラウンドの建設が具体的にいつ始まり、どのような形で進められたかの史料は乏しいが、1911年の後半に着工されたと見られる[10]。豊中グラウンドの工事は1913年4月に終わり[10]、公式には5月1日が開場日とされた[10][11]。ただし、5月1日には特段の式典も行われず[11]、6月に入って専門家の進言を受けて2週間ほどの再工事を行っている[10]。 また、開設当時は綿畑や雑木林が広がっていたという[1]グラウンド周辺では「豊中住宅地」の開発が進められ、1914年から分譲が始まっている[10]。 1913年日米大学対抗野球豊中グラウンドの実質的な開場と見なされるのは1913年(大正2年)6月21日である[11]。21・22日の2日間の日程で[12]、大阪毎日新聞社主催の日米大学野球(慶應義塾大学対スタンフォード大学[注釈 3])が開催された[11][12]。試合に合わせて豊中停留場が建設された[11](豊中停留場は公式には同年10月1日開業とされているが、6月19日には両校の練習に合わせて乗降が行われている[11][注釈 4]。主催者発表で21日には3万人[12]、22日には4万人[14]という大観衆が集まったという。スタンフォードとの2連戦を終えた慶應チームは、翌23日に神戸高等商業学校(神戸大学の前身の一つ)との試合を行った[6]。 日米大学野球の開催により、豊中グラウンドの名声は高まった[15]。 関西学生連合野球大会1913年8月、美津濃運動具店(現在のミズノ)主催で「第1回関西学生連合野球大会」が開催される[15][注釈 5]。中等学校の野球大会であり、京阪神地区の20校が参加した[15]。1915年から開催される全国中等学校優勝野球大会(のちの全国高等学校野球選手権大会)の「原点」[15]「前身」[16]とも評される大会である。 第1回関西学生連合野球大会は交流戦大会で、優勝校を決めるものではなく[17]、OBと現役選手が編成した「クラブチーム」同士の対戦も組まれている[15][17]。翌年には第2回大会が開催され、トーナメント形式で競われた[17]。 社会人野球の「聖地」当時の野球は学生野球が中心であり、試合も校庭で行われるのが普通であった[7]。専用の「野球場」がなかった時代、社会人チームが試合をするためには学校の校庭を間借りすることになるが、その確保は難題であった[7]。豊中グラウンドは社会人野球にも試合会場・練習場として積極的に提供したため、「一流のグラウンドで気軽に野球ができる」豊中グラウンドは社会人野球にとって重要な場所となった[7]。 美津濃運動具店は、1911年に日本初の社会人野球の大会である「大阪実業団野球大会」を十三運動場で開催していたが[7]、1913年の「第2回大阪実業団野球大会」の準決勝・決勝を10月12日に豊中グラウンドで行った[7][13]。
高校野球発祥の地記念公園1988年の第70回全国高等学校野球選手権大会を記念し、豊中グラウンド跡地北側に「高校野球メモリアルパーク」として整備された。2017年4月6日に再整備され、「高校野球発祥の地記念公園」となった[23]。再整備では面積が約4倍 (114平米→445平米)に拡大され[24]。グランド跡地の住民から寄贈された赤レンガを一部使って公園にレンガ塀を新設し、公園と道を挟んだ東側の遊歩道に夏の大会の歴代優勝・準優勝校の校名を記したプレートを設置した[25]
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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