利用者:桂鷺淵/下書き6羅 森(ら しん、1821年 − 1899年)は、中国・清代の文人。字は向喬。広東省南海県の人[1]。 マシュー・ペリーの日本訪問に同行し、漢文通訳を務めた。また、近代中国で初の日本見聞記『日本日記』を著したことで、日中関係史に足跡を残している。 生涯はじめ清朝で官吏として働いていたが[1]、太平天国の乱ののち、香港の英国領事館で秘書として働くようになった[1]。 ペリー艦隊の首席通訳官サミュエル・ウィリアムズの助手として艦隊に同行[2]。ウィリアムズは中国での長期滞在経験があり、中国語に通じていた人物であるが[3]、外交文書の作成や筆談のために教養のある人物を求めており、羅森が雇用されることになった[3]。羅森は文人として漢詩・漢文に熟達しており、英語も非常に達者であったが、日本語は解さなかった[3]。 羅森は日本で、林大学頭[4]、松崎満太郎[4]、平山謙二郎[4]、堀達之助[4]、名村五八郎[4]、合原猪三郎[4]、吉田松陰[4]、大槻磐渓[4]、関藍梁[4]、松前勘解由[1]など、多くの人々と詩文をやり取りした[4]。羅森の肖像・言行は小島又次郎『阿墨利加一条写』に収録されている[1]。 羅森は日本・琉球訪問時に日記をつけていた[3]。日記の英語版は、合衆国議会に提出された公式記録『ペリー艦隊日本遠征記』に収録されており[3]、中国語版は中国で「日本日記」として出版された(後述)。羅森は琉球と日本の人と社会について、純朴であって治安が良いとおおむね好意的に描いている[5]。 日中関係日記の中国語版は、香港の英華書院が出版していた雑誌(新聞とも[1])『遐邇貫珍』に「日本日記」として連載された[3](転載であるともいう[1])。これは、近代(アヘン戦争以後)の中国人が実際の日本の見聞記が好感された初の事例である。 なお、『遐邇貫珍』は日本にももたらされ、中国人から見た日本観の情報源ともなった[1]。 人物
脚注注釈出典参考文献
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