利用者:模様砂漠2/作業場取次(とりつぎ)とは、武家政権の側近が、政権の影響下にある地方大名等と政権の間を取り次ぐことや、政権側の意向によって対象を指導することや、その役割を担った人物を指す日本史研究上の概念。同時代においては申次、奏者、聞次ともいう。1987年山本博文が豊臣政権における大名統制機構としての取次の存在を提唱した[1]後、豊臣政権やその他の武家政権における取次の研究が行われるようになった。 概要取次は最高権力者の側近くにあって内意を伺い、公式な命令書である朱印状や御教書への副状(添状)を発給するなどして地方大名などに伝達し、また地方大名からの意思を最高権力者に伝達した[2][3][4]。また、地方大名が適切な行動を取るための助言である「指南」を行っていた[3][5][6]。この慣習は武家の間で広汎に存在しており[7][6]、半ば公式な存在として認められていた[2][8]。このような用例で用いる際にはカギ括弧を使った「取次」と表記することも行われている[注釈 1]。 山本博文はここから概念を発展させ、豊臣政権期には「外交窓口として設定された『取次』が、天下統一後に制度的な任務として活用されるようになった」[9]とし、豊臣政権における大名統制機構として位置づけた[10]。これに対し田中誠二は、取次の語義は下から上へ取り次ぐものであること[注釈 2]、大名の側から取次を乗りかえたり、絶交した事例があるとして、取次は「(政権によって定められた)制度ではなく」「知音関係に基づく慣習」であると反論している[6][10]。 研究史1987年、山本博文は豊臣政権期の取次に注目した論文「家康の「公儀」占拠への一視点 - 幕藩制成立期の「取次」の特質について」[注釈 3]を著し、取次の役割は特に注目されるようになった。特に豊臣政権研究にとっては不可欠の考察対象となったとされる[注釈 4]が、定義に関しても研究者間でも議論があり、いまだ明確な定説はない[10]。 室町幕府における取次室町幕府において取次は国人や守護、寺社や公家との連絡を取る役目があった。幕府前期の頃は将軍近習が京都周辺を受け持っていたのに対し、管領や四職、有力守護等の幕閣有力者は主に地方を担当していた。桜井英治は特にこれを取次とし、近習の申次と区別している[11]。また義持時代に満済が山城国と南都の取次を行ったように、地域を担当することもあった。また取次の地位は一族内で継承されることもあった。 具体的な取次行為は将軍の御内書や管領奉書に添状をつけたり、幕命を補足するために使者を派遣することであった。また取次から私状を出すこともあったが、足利義教は私状にも目を通し添削するなどしており、事実上の公的行為であった。一方で取次は幕府への対応を指南し、訴訟や要望を将軍に伝達した。このため取次対象と取次の間には一種の癒着関係が生まれた[11]。しかし建前としては取次の行為は内々の行為であり、明文化されることのない制度であった。そのため取次の役割は政策決定者ではなく、一種のロビイストであったとされる[12]。独裁制が強まった義教時代の後期には取次の権能が近習の赤松満政に集中した。しかし嘉吉の乱で義教が死亡して赤松満政も没落すると、諸国の取次の多くは細川持賢に集中し、細川氏京兆家の勢力が増大した[13]。応仁の乱以降は幕府の権威が弱まった上に守護在京制が崩れたため、有力幕閣による取次は姿を消した。 取次の例
戦国時代戦国時代には対等な関係の大名間で外交関係を担当する重臣が存在し、岩澤愿彦以来広く研究が行われていた。この存在は研究では奏者と呼ばれることが多いが、取次と呼ばれることがあり、豊臣政権における取次の前身と措定されている[15]。また、大名家が優位な同盟関係を持つ国衆や他国衆と呼ばれる地方領主に対する「指南」「取次」「奏者」もおり、軍事的指示などを行っていた[16]。 織田政権織田信長が勢力を拡大し、織田政権が準中央政権として成長するに従い、取次に関する関係も変化した。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は永禄12年(1569年)の段階で毛利氏との申次を命じられた[17]。甲斐武田家滅亡後には滝川一益が上野に封じられ、北条氏をはじめとする関東諸侯との連絡役に当たった。信長公記では一益の地位を「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」としており、織田政権の「取次」であったと見られている[18]。 本能寺の変とそれに伴う天正壬午の乱による後北条氏と徳川家康の和睦後は、徳川家康が関東における「惣無事」体制を構築するという滝川一益の地位を引き継いだ。家康は「信長御在世」の当時の秩序を実現するためとして北関東諸侯に対する影響力を持ったが、後北条氏と和睦をしているという関係上、完全な統制力を持つことは出来なかった[19]。 豊臣政権秀吉は京都を掌握した翌年の天正11年(1583年)頃から、自らの書状に家臣の添状を付けることが多くなっている[20]。天正11年6月、秀吉は臣従した佐々成政に越後上杉氏や新発田氏、飛騨国[21]との取次を命じた。成政は書状で秀吉の「執次」を「上様(信長)御時」の際と同じように行うと告げており、この時期の「取次」は織田政権時代から引き続き、「上様御在世御時」と同じように「御指南」等を行うものであるとされていた[22]。また毛利氏との取次には羽柴時代から接触のあった小早川隆景や安国寺恵瓊が重要な役割を果たすようになった[23]。また秀吉の弟秀長は「公儀之事」を取り扱う権限を持っていたが、その中で諸大名に対して諸事「馳走」する権限も含まれている。この事から秀長の権限には山本博文が定義する「取次」や「指南」の職権が含まれているとも解釈されている[24]。 豊臣政権に臣従した上杉景勝は天正14年(1586年)9月に、関東や隣国に対して「可被申次」よう命じられた。この役割は別の文書では「御取次之儀」と表現されている[25]。徳川家康の上洛後は景勝と家康が談合して「関東之儀」に当たるよう命ぜられたほか[注釈 5]、前田利家も関東・奥羽の諸大名への取次的役割を果たすことになった。この時期にはこれら大大名による取次の他に、富田知信・津田信勝・施薬院全宗・和久宗是などの秀吉直臣も取次として活動していた。この時期の関東に対して統一的でない複数の取次が置かれた理由を、山本博文はそれぞれの「手筋」に独自に交渉させるためとしている。彼らは独自の才覚で対象の大名と交渉し、秀吉に服属させることを目的としていた[26]。天正15年(1587年)6月、秀吉は毛利輝元に「九州取次」を任せようとしたが固辞された。九州の役の際にはこの「九州取次」の役割は小早川隆景に任されることとなり、筑後の諸大名が与力として付属された。[23]。 天正18年(1590年)小田原の役終結後には増田長盛や石田三成といった奉行クラスが取次を行う例が多く見られるようになった[27]。石田三成は島津氏[28]・佐竹氏[27]、増田長盛が下野国・常陸国・安房国[27]、浅野長政が宇都宮氏・南部氏・成田氏・那須氏と那須衆・伊達政宗[29]を担当していた。しかし全体的には石田三成と増田長盛に集中するようになり、「石田・増田、諸侯の取次」と評されるようになった[30]。 秀吉が慶長3年(1598年)に死亡した後実権を握った徳川家康は、奉行のほかに自らの家臣を取次に採用するようになった。庄内の乱の調停にあたっては寺沢正成と並んで家康家臣の山口直友が参加しており、以降山口は島津家との交渉に当たるようになった。また、上杉景勝の家臣直江兼続から送られたとされる直江状には、「榊式太表向之取次二而候(榊原康政が表向きの取次である)」という記述があり、山本博文は榊原康政がこの時期取次を務めていたとしている[注釈 6]。関ヶ原の戦いの後は山口直友も公的な存在となり[31]、取次の存在も家康を中心とした者になっていった。 豊臣政権の取次の活動取次は秀吉の意を受けた行動だけでなく、自己の裁量で大名に指示を出したり、大名が有利になるよう助けることもあった[32]。安国寺恵瓊のように大名から資金を受けて工作する例もあるが[32]、取次にとって対象の大名が忠実な豊臣政権の大名となることは、有力な味方が増えるという利益もあった[33]。このため取次は公的な任務だけでなく、「内々に立ち入りての熟談」を行って大名の体制強化、行動の「指南」を行った[34]。一方で大名側にとっても取次による「御指南」は秀吉の内意を受けたものであると認識されていたこと、取次自身が秀吉に近い存在であったこともあって大名はその指示に従う姿勢を見せた[35]。一方で大名側も取次に秀吉への取りなしや援助を期待し、秀吉とのパイプ役として重視した[36]。 取次が大名の保護に動いた事例としては、小田原の役後の関東仕置にあたって徳川家康・前田利家らが関東諸侯の所領安堵に動いた事例[37]、島津義久が石田三成に働きかけて島津領の検地を実施させた事例などがある[38]。一方で伊達政宗が取次である浅野長政の行動に不信を抱き、「御指南」を断って絶縁するという事態も発生した[39]。 豊臣政権期の取次に関する論争取次という語自体には一時的な伝達任務が含まれる事もあり、史料中に「取次」であると書かれていても、その人物が「取次」であったと認めるかどうか解釈が異なる場合もある[9]。実際に黒田孝高や富田知信・徳川家康など個別の大名が取次であったかという点でも、津野倫明・片山正彦と山本博文の間では論争がある[40]。この他には津野と山本による大老層との取次関係をめぐる論争もある[41]。 江戸幕府関ヶ原の戦い以降、諸大名と徳川家の間において、知音関係による新たな取次関係が構築されていった[42]。諸大名は幕府の年寄・老中に「指南」を仰ぐようになったが、この指南を行う老中は各大名家によって定まっていた。これを山本博文は「取次の老中」と表現している[43]。元和8年(1622年)に本多正純が失脚して以降は年寄土井利勝の権威が高まり、諸大名は競って利勝を頼るようになった。長州藩の毛利秀就も利勝に取次を頼んだ一人であり、「幼少以来大炊殿(土井利勝)、別て御入魂に預かり、数年の間御取次を頼み奉り」と語っている[43]。「取次の老中」は単に事実をそのまま将軍に「取次」のではなく、情報をある程度変更して伝えることもあり、それは慣習として認められていた[44]。しかし徳川家光は特定の年寄に権勢が集中することを嫌い、寛永12年(1635年)より老中の月番制を開始して、訴えを受ける老中を月ごとに変更させることにした。しかしその後も大名が「取次の老中」から行動の「指南」を受ける慣習は変わらなかった[45]。 また、大名家は特定の旗本と親しく交流し、年寄との交渉に介在させた。この旗本は「心安き旗本衆」[46]や「懇意の旗本」[47]と呼ばれている。これらの旗本は大名と将軍の仲介機能という「取次」の本来の役割を持っており、「指南」を行ったり大名家の「後見」を行うなど、「取次」との色濃い共通性が見られるものであった[47]。山本博文は年寄が旗本達を通じて大名妻子の江戸居住を行うよう内意を伝達した事例を挙げ、幕府が大名の体面を重んじながらも、意向にそう政策を実現したとしている[48]。 徳川綱吉時代の延宝8年(1680年)には幕府より旗本による「後見」の慣習を禁止する通達が行われた[49]が、懇意の旗本を通じての交渉はその後行われていた[50]。また、「御頼の老中」とよばれる幕閣が大名に「指南」したり、「取次」行為を行う慣習も継続された[51][注釈 7]。 徳川家宣が将軍となった宝永6年(1709年)2月9日、「御頼の老中」の慣習は禁止され、大名からの願書は月番の老中に提出することが定められた。これ以降の文政年間から慶応年間にも取次の大名・旗本が活動していたが、彼らの役割は限定された形式的なものに限られるようになった[52]。 脚注
注釈
参考文献
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