利用者:漱石の猫/原田弘子生涯人物東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ[1]。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。 1918年、論文「母性保護と経済的独立」を「婦人公論」に発表し、論壇での地位を確立した[2]。雑誌「社会主義研究」「前衛」などを創刊した[2]。 日本の婦人運動に初めて批評的、科学的視点を持ち込んだ。多くの評論集は、明晰な分析と鋭い批評眼を示し、日本における女性解放運動の思想的原点と評される[3]。戦後は民主婦人協会を結成、その後婦人少年局長に就任した[2]。 評論活動以外では、戦時下、柳田國男のあっせんにより[4]、『武家の女性』『わが住む村』を執筆し、聞き書きをもとにした普通の生活の営みを民俗・社会誌として作品にした。戦後には、母・千世と菊栄二代の女性史としての『おんな二代の記』や、水戸藩藩儒であった祖父青山延寿の日誌や書簡などに元に『覚書 幕末の水戸藩』をはじめとする社会史を平明な文体で残した。
生い立ち1890年(明治23年)、東京都麹町に森田龍之助と青山千世の次女として生まれた[5]。 父の龍之助は松江藩士の出身で、苦学の末にフランス語を習得し陸軍省の通訳を務め、後に食肉開拓技術の先駆者として複数の事業を手掛ける成功を収めるが、家庭内での存在感は薄かった[5]。留守がちな父の分まで家庭を 母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、祖父延寿の死去に伴い、青山家の戸主となり、1906年より青山姓を名乗る[6]。弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたる。大叔父(大叔母の夫)に水戸藩士吉成勇太郎がいる[7]。 東京府立第二高等女学校卒業。 1912年(明治45年)、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。
廃娼論争![]() ![]() ![]()
1915年〜1916年『青鞜』誌上において伊藤野枝との間に「廃娼論争」を交わし、野枝の上中流階級の女性たちによる慈善的・恩恵活動を欺瞞的とする批判に賛意を表する一方、公娼制度容認を徹底的に批判した[8]。
母性保護論争1918年(大正7年)ころから始まった母性保護論争に参加、社会主義の立場から平塚らいてう・与謝野晶子らの運動を批判[9]。 セクシュアリティ問題と婦人運動1921年(大正10年)4月、日本で最初の社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成、同年メーデーに初参加。 1947年(昭和22年)、日本社会党に入党。9月1日、片山内閣のもとで、新設の労働省の初代婦人少年局長に就任した[10]。米国の労働婦人局統計調査資料を、太平洋戦争開戦までの約20年間寄贈を受けて読んでおり、日本でもこうした調査が必要と考えていたことから、「簡単に引き受けた」という[11][12]。地方の出先機関である地方職員室の管理職、主任に女性を登用した。GHQの支持を取り付けつつ、自ら各地に出張して面接を繰り返した。「山川人事」と呼ばれた。[13]。 内務省廃止でポストを失った男性を主任に就けるとの目的もあり、地方労働基準局長から男性ばかりが推薦されるのにあきれ、「地位収入を問題とせず、すて身でとびこんできてくださる優秀な方」を募集するとの「局長の檄文」を執筆した。人選は難航したが、1947年7月下旬に全都道府県で主任の人事が固まった[14]。1951年まで務めた。 1962年(昭和37年)、田中寿美子らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立した[15]。
晩年1974年(昭和49年)、『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞[16]。 1980年(昭和55年)、死去。墓所は倉敷市長連寺山門北側[17]。
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