利用者:狄の用務員/ハヤシバラシティ
ザ・ハヤシバラシティ(英:the hayashibara city)は、岡山市に本社を置くバイオ企業、林原グループが2002年に発表した複合街区構想。所有する岡山駅南の約5万平方メートルの敷地に約1500億円を投じ、超高層ビルや博物館、ホテルなどを建設する、当時の地方都市としてはほとんどありえない規模の構想であった[1][2]。 地元民の期待を集めた一方、過大な規模の構想のため、経済界からは実現性を疑う意見も少なくなかった。 2002年の構想発表以来、着工はなく、林原は2011年に経営破綻し、用地は2012年にイオンモール株式会社に譲渡された。2014年に現在、イオンモール岡山が立地する。 ハヤシバラシティは大都会岡山の印象を強めたという声もある。
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背景林原の起源バブル経済不動産事業への集中ハヤシバラシティ発表概要1883年、林原克太郎が現在の岡山市北区天瀬に麦芽水飴製造業を営む林原商店(はやしばらしょうてん)として創業する。 1932年、株式会社林原商店へ改組し、林原一郎が3代目社長に就任して研究開発や経営多角化を推進する。水飴製造は酸糖化法を導入し「太陽印水飴」として日本本土や大陸方面へ販路を拡大する。1943年、林原株式会社へ社名変更する。1945年、岡山空襲で工場を焼失するも終戦直後に復興して水飴生産量が日本一になり、不動産事業では岡山駅南(現在のイオンモール岡山の場所)に約2万坪の土地を購入し、1948年、同所へ本社を移転する。以後デンプンから各種糖質開発を事業として特許を多数取得し、莫大な収益でさらに新規研究を行う研究開発型企業へ成長する。
1961年、林原健の社長就任以降、自社で製造法を確立したブドウ糖の生産をはじめ、マルトース、プルランなど各種糖質の量産化に成功し、林原生物化学研究所などグループ会社を次々と設立する。美術館開館、備中漆復興事業、古生物学(恐竜発掘)調査、類人猿研究などメセナ事業も積極展開を始める。1990年代以降、甘味料などに用いられる糖質トレハロース、抗がん剤用途のインターフェロンを生産し世界市場で販売する。ただし林原健の弟で専務取締役を務めた林原靖によると、林原インターフェロン製造のために建設された吉備製薬工場は稼働実績で二割を上回ったことがなく、後の経営破綻の最大の原因の一つとあげている[10]。これは林原の天然型インターフェロン製造法が後発の遺伝子組み換えインターフェロンの競合に効率で劣っていたことと、販売協力関係にあった大塚製薬の社長が新薬開発をめぐる汚職事件に関わり、製薬会社の社長を退任せざるを得なかったことによるという[10]。2011年2月2日、林原、林原生物化学研究所、林原商事のグループ中核3社が会社更生法適用を東京地方裁判所に申請[11]、3月7日に更生手続開始が決定[12] する。
経営創業家による経営JR岡山駅南の土地2万坪など大規模な自社所有地の含み益と特許利益により資金調達が容易で、長期間の独自研究開発のために未上場で創業者の林原一族が長年同族経営していた。縁故採用に肯定的で、社員公募せず多くを地元岡山の大学生から採用[15] している。メセナ活動にも積極的に投資し、2002年に林原グループ本社や林原自然科学博物館、有料駐車場(林原モータープール)として利用されていたJR岡山駅南の自社所有地を「ザ ハヤシバラシティ」として再開発する構想[16] を発表している。 しかし一方では、豊富な不動産資産を背景に、1970年代からバブル期にかけて1,700億円にものぼる多額の借入を金融機関から行った[17]。借入金は研究投資に用いられ、ハムスター法によるインターフェロンの製造法開発に成功したが、競合品である遺伝子組み換えインターフェロンの登場により、投資額を回収する分だけの利益を挙げるには至らなかった[18][19]。当時はトレハロース、AA-2G等の2000年代の主力製品の開発前であったことに加え、バブル崩壊により岡山駅前に保有する土地の評価額が激減していたことで、林原グループは既にこの時点で事実上の債務超過に陥っていたとみられる[17]。 この頃から、不正経理によって銀行から多額の融資を受ける行為が常態化していた[17]。岡山製紙や三星食品などのグループ会社は上場し次々に売却したが、グループ本体は不正経理の発覚を恐れ上場できず、長年にわたって間接金融に依存する状態が続いていた[20][21]。経営破綻の原因は直接的には、2010年末に金融機関から不正経理を指摘され融資の継続がされなくなったことだが、そもそもの不正経理を行う動機は凄まじい額の研究投資とインターフェロンのビジネスとしての失敗である。[22][23] 経営破綻時に一部報道で言われた「メセナ活動や不動産投資が経営を圧迫した」というのは誤りで、あくまで粉飾の根っこは「金食い虫」である林原生物科学研究所による過大な研究投資、特にインターフェロンの失敗である[22]。メセナ活動や不動産事業は多く見積もっても年間数億円の出費にしか満たず、借入金利息を毎年返済してもトレハロースやAA2Gの売り上げで年間20億円以上の利益を上げていた90年代以降の林原にとっては大きな問題ではなく、不動産を扱う太陽殖産はそもそも更生法申請時にも資産超過状態だった[24][25]。 不正経理の発覚と事業再生ADR準備2010年末に住友信託銀行と中国銀行[注釈 1]が秘密裏に行った内部資料の突き合わせから、林原グループは貸借対照表の借入金の差異を指摘された[27]。住友信託銀行および中国銀行は不渡り処分をちらつかせることで、年末までの時点で林原健および靖の個人保証、関係各社相互の債務保証への署名捺印を行わせ、不動産を担保に入れた[28]。メイン2行の他の債権者を差し置いた行動は後に他の債権者の不信感を生み、ADR不合意の主な原因となった[29]。2010年12月時点で林原グループは資産を全て同じ2行の担保に入れ、翌年2月末の融資の継続書き換え時には、担保不足によって資金ショートになる公算となった[28]。この時点でメインバンクの中国銀行から林原に対して裁判外紛争解決手続き (ADR) を進めるよう指示があり、同銀行から林原に対してADRの第一人者である西村あさひ法律事務所の紹介を行った[30]。 更生計画の終了JR岡山駅南の自社所有地は、2011年9月21日に入札が行われ、イオンモールに売却されることが決定した[31]。売買契約の決済とイオンモールへの所有地の引き渡しは、2012年1月27日に東京地方裁判所の更生計画案の認可決定が確定したのを受け、同年1月30日付で行われた[32](イオンモール岡山も参照)。これに先だって、株式会社林原・株式会社林原商事・株式会社林原生物化学研究所の3社は、2011年12月26日に本社を移転し[33]、2011年12月31日には、有料駐車場(林原モータープール)も閉鎖された。 2012年2月1日付で林原商事・林原生物化学研究所の2社は株式会社林原に吸収合併されて消滅し、同年2月3日に林原は100%減資のうえ、長瀬産業の完全子会社となった[34]。 ![]() (2011年12月撮影) イオンモール岡山が立地するJR岡山駅南の約8万8000m2の敷地は、岡山市に本社を置くバイオメーカーの林原(現・ナガセヴィータ)が1946年に旧日本電気の工場跡地を取得したもので、以来、長年にわたり本社および有料駐車場(林原モータープール)、レンタカー店[注釈 2]として活用されていた[35]。 2002年には林原が自社所有地の再開発構想として、「ザ ハヤシバラ シティ」構想を発表した[36]。「世界の名所になるような近未来都市をつくる」というコンセプトで、2つの大型百貨店、高級ホテル、35階建てのオフィスビルや45階建てマンション、恐竜の化石を展示する自然科学博物館や美術館などの文化施設を設けた複合施設として、2009年末までに開業するという構想であった[37]。2003年には国土交通省より都市再生特別措置法に基づく緊急整備地域のうち「岡山駅東・表町」の一部として指定されたが、長引く景気の低迷によって所有地の地価の下落が続き、着工のめどが立たない状況が続いていた。総額約1,400億円の負債を抱え、不正経理の発覚により資金繰りが悪化した林原は、2011年2月に東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し、事実上の経営破綻に陥ったことで、この構想は頓挫した[38]。 破産管財人のもと決定された林原の会社更生計画によって、JR岡山駅南の自社所有地は売却が決定され、2011年9月21日に入札が行われ、イオンモールが約200億円で落札した[39]。同年12月26日には林原の本社が移転し、12月31日には有料駐車場が閉鎖された。土地は、会社更生計画案の確定を経た2012年1月30日にイオンモールに引き渡された。その後は駐車場部分を一時的に有料駐車場(タイムズの駐車場)として暫定活用し、既存建物の解体工事が進められた。2012年4月5日にイオンモールは営業本部組織下に「岡山推進事業部」を新設し、具体的な施設整備の検討に入った。2013年4月1日に本体工事に着手し、4月24日に起工式が開催され、同時に施設概要が発表された[40]。5月24日には、国土交通省から「認定民間都市再生事業」として認定を受けた[41]。
![]() ザ・ハヤシバラシティ構想 概要分譲マンションシンボルタワーとなる岡山県内最高層の約45階建ての分譲マンション 7.2万㎡ オフィスビル林原自然科学博物館林原美術館ホテル大型百貨店"大都会岡山"への影響
関連項目参考文献外部リンク脚注
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