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皇甫 規(こうほ き、永元16年〈104年〉 - 熹平3年〈174年〉)は、後漢の武将・学者。字は威明。涼州安定郡朝那県の人。涼州三明の一人。甥に皇甫嵩。s:zh:後漢書/卷65 生涯祖父皇甫棱,度遼將軍。父旗,扶風都尉。 永和六年,西羌大寇三輔,圍安定,征西將軍馬賢將諸郡兵擊之,不能克。規雖在布衣,見賢不卹軍事,審其必敗,乃上書言狀。尋而賢果為羌所沒。郡將知規有兵略,乃命為功曹,使率甲士八百,與羌交戰,斬首數級,賊遂退卻。舉規上計掾。其後羌眾大合,攻燒隴西,朝廷患之。規乃上疏求乞自效,曰:「臣比年以來,數陳便宜。羌戎未動,策其將反,馬賢始出,頗知必敗。誤中之言,在可考校。臣每惟賢等擁眾四年,未有成功,懸師之費且百億計,出於平人,回入姦吏。故江湖之人,群為盜賊,青、徐荒飢,襁負流散。夫羌戎潰叛,不由承平,皆由邊將失於綏御。乘常守安,則君侵暴,苟競小利,則致大害,微勝則虛張首級,軍敗則隱匿不言。軍士勞怨,困於猾吏,進不得快戰以徼功,退不得溫飽以全命,餓死溝渠,暴骨中原。徒見王師之出,不聞振旅之聲。酋豪泣血,驚懼生變。是以安不能久,敗則經年。臣所以搏手叩心而增歎者也。願假臣兩營二郡,屯列坐食之兵五千,出其不意,與護羌校尉趙沖共相首尾。土地山谷,臣所曉習;兵埶巧便,臣已更之。可不煩方寸之印,尺帛之賜,高可以滌患,下可以納降。若謂臣年少官輕,不足用者,凡諸敗將,非官爵之不高,年齒之不邁。臣不勝至誠,沒死自陳。」時帝不能用。 沖質之閒,梁太后臨朝,規舉賢良方正。對策曰: 伏惟孝順皇帝,初勤王政,紀綱四方,幾以獲安。後遭姦偽,威分近習,畜貨聚馬,戲謔是聞;又因緣嬖倖,受賂賣爵,輕使賓客,交錯其閒,天下擾擾,從亂如歸,故每有征戰,鮮不挫傷,官民並竭,上下窮虛。臣在關西,竊聽風聲,未聞國家有所先後,而威福之來,咸歸權倖。陛下體兼乾坤,聰哲純茂。攝政之初,拔用忠貞,其餘維綱,多所改正。遠近翕然,望見太平。而地震之後,霧氣白濁,日月不光,旱魃為虐,大賊從橫,流血丹野,庶品不安,譴誠累至,殆以姦臣權重之所致也。其常侍尤無狀者,亟便黜遣,披埽凶黨,收入財賄,以塞痛怨,以荅天誡。 今大將軍梁冀、河南尹不疑,處周、邵之任,為社稷之鎮,加與王室世為姻族,今日立號雖尊可也,實宜增脩謙節,輔以儒術,省去遊娛不急之務,割減廬第無益之飾。夫君者舟也,人者水也。群臣乘舟者也,將軍兄弟操楫者也。若能平志畢力,以度元元,所謂福也。如其怠弛,將淪波濤。可不慎乎!夫德不稱祿,猶鑿墉之趾,以益其高。豈量力審功安固之道哉?凡諸宿猾、酒徒、戲客,皆耳納邪聲,口出諂言,甘心逸遊,唱造不義。亦宜貶斥,以懲不軌。令冀等深思得賢之福,失人之累。又在位素餐,尚書怠職,有司依違,莫肯糾察,故使陛下專受諂諛之言,不聞戶牖之外。臣誠知阿諛有福,深言近禍,豈敢隱心以避誅責乎!臣生長邊遠,希涉紫庭,怖慴失守,言不盡心。 梁冀忿其刺己,以規為下第,拜郎中。託疾免歸,州郡承冀旨,幾陷死者再三。遂以詩、易教授,門徒三百餘人,積十四年。後梁冀被誅,旬月之閒,禮命五至,皆不就。 時太山賊叔孫無忌侵亂郡縣,中郎將宗資討之未服。公車特徵規,拜太山太守。規到官,廣設方略,寇賊悉平。延熹四年秋,叛羌零吾等與先零別種寇鈔關中,護羌校尉段熲坐徵。後先零諸種陸梁,覆沒營塢。規素悉羌事,志自奮效,乃上疏曰:「自臣受任,志竭愚鈍,實賴兗州刺史牽顥之清猛,中郎將宗資之信義,得承節度,幸無咎譽。今猾賊就滅,太山略平,復聞群羌並皆反逆。臣生長邠岐,年五十有九,昔為郡吏,再更叛羌,豫籌其事,有誤中之言。臣素有固疾,恐犬馬齒窮,不報大恩,願乞冗官,備單車一介之使,勞來三輔,宣國威澤,以所習地形兵埶,佐助諸軍。臣窮居孤危之中,坐觀郡將,已數十年矣。自鳥鼠至于東岱,其病一也。力求猛敵,不如清平;勤明吳、孫,未若奉法。前變未遠,臣誠戚之。是以越職,盡其區區。」 至冬,羌遂大合,朝廷為憂。三公舉規為中郎將,持節監關西兵,討零吾等,破之,斬首八百級。先零諸種羌慕規威信,相勸降者十餘萬。明年,規因發其騎共討隴右,而道路隔絕,軍中大疫,死者十三四。規親入菴廬,巡視將士,三軍感悅。東羌遂遣使乞降,涼州復通。 先是安定太守孫雋受取狼籍,屬國都尉李翕、督軍御史張稟多殺降羌,涼州刺史郭閎、漢陽太守趙熹並老弱不堪任職,而皆倚恃權貴,不遵法度。規到州界,悉條奏其罪,或免或誅。羌人聞之,翕然反善。沈氐大豪滇昌、飢恬等十餘萬口,復詣規降。 規出身數年,持節為將,擁眾立功,還督鄉里,既無它私惠,而多所舉奏,又惡絕宦官,不與交通,於是中外並怨,遂共誣規貨賂群羌,令其文降。天子璽書誚讓相屬。規懼不免,上疏自訟曰:「四年之秋,戎醜蠢戾,爰自西州,侵及涇陽,舊都懼駭,朝廷西顧。明詔不以臣愚駑,急使軍就道。幸蒙威靈,遂振國命,羌戎諸種,大小稽首,輒移書營郡,以訪誅納,所省之費,一億以上。以為忠臣之義,不敢告勞,故恥以片言自及微效。然比方先事,庶免罪悔。前踐州界,先奏郡守孫雋,次及屬國都尉李翕、督軍御史張稟;旋師南征,又上涼州刺史郭閎、漢陽太守趙熹,陳其過惡,執據大辟。凡此五臣,支黨半國,其餘墨綬,下至小吏,所連及者,復有百餘。吏託報將之怨,子思復父之恥,載贄馳車,懷糧步走,交搆豪門,競流謗讟,云臣私報諸羌,謝其錢貨。若臣以私財,則家無擔石;如物出於官,則文簿易考。就臣愚惑,信如言者,前世尚遺匈奴以宮姬,鎮烏孫以公主。今臣但費千萬,以懷叛羌。則良臣之才略,兵家之所貴,將有何罪,負義違理乎?自永初以來,將出不少,覆軍有五,動資巨億。有旋車完封,寫之權門,而名成功立,厚加爵封。今臣還督本土,糾舉諸郡,絕交離親,戮辱舊故,眾謗陰害,固其宜也。臣雖汙穢,廉絜無聞,今見覆沒,恥痛實深。傳稱『鹿死不擇音』,謹冒昧略上。」 其年冬,徵還拜議郎。論功當封。而中常侍徐璜、左悺欲從求貨,數遣賓客就問功狀,規終不荅。璜等忿怒,陷以前事,下之於吏。官屬欲賦斂請謝,規誓而不聽,遂以餘寇不絕,坐繫廷尉,論輸左校。諸公及太學生張鳳等三百餘人詣闕訟之。會赦,歸家。 徵拜度遼将軍,至營數月,上書薦中郎將張奐以自代。曰:「臣聞人無常俗,而政有治亂;兵無強弱,而將有能否。伏見中郎將張奐,才略兼優,宜正元帥,以從眾望。若猶謂愚臣宜充軍事者,願乞冗官,以為奐副。」朝庭從之,以奐代為度遼將軍,規為使匈奴中郎將。及奐遷大司農,規復代為度遼將軍。 規為人多意筭,自以連在大位,欲退身避第,數上病,不見聽。會友人上郡太守王旻喪還,規縞素越界,到下亭迎之。因令客密告并州刺史胡芳,言規擅遠軍營,公違禁憲,當急舉奏。芳曰:「威明欲避第仕塗,故激發我耳。吾當為朝廷愛才,何能申此子計邪!」遂無所問。及黨事大起,天下名賢多見染逮,規雖為名將,素譽不高。自以西州豪桀,恥不得豫,乃先自上言:「臣前薦故大司農張奐,是附黨也。又臣昔論輸左校時,太學生張鳳等上書訟臣,是為黨人所附也。臣宜坐之。」朝廷知而不問,時人以為規賢。 在事數歲,北邊威服。永康元年,徵為尚書。其夏日食,詔公卿舉賢良方正,下問得失。規對曰:「天之於王者,如君之於臣,父之於子也。誡以災妖,使從福祥。陛下八年之中,三斷大獄,一除內嬖,再誅外臣。而災異猶見,人情未安者,殆賢愚進退,威刑所加,有非其理也。前太尉陳蕃、劉矩,忠謀高世,廢在里巷;劉祐、馮緄、趙典、尹勳,正直多怨,流放家門;李膺、王暢、孔翊,絜身守禮,終無宰相之階。至於鉤黨之釁,事起無端,虐賢傷善,哀及無辜。今興改善政,易於覆手,而群臣杜口,鑒畏前害,互相瞻顧,莫肯正言。伏願陛下暫留聖明,容受謇直,則前責可弭,後福必降。」對奏,不省。 遷規弘農太守,封壽成亭侯,邑二百戶,讓封不受。再轉為護羌校尉。熹平三年,以疾召還,未至,卒于穀城,年七十一。所著賦、銘、碑、讚、禱文、弔、章表、教令、書、檄、牋記,凡二十七篇。 論曰:孔子稱「其言之不怍,則其為之也難」。察皇甫規之言,其心不怍哉!夫其審己則干祿,見賢則委位,故干祿不為貪,而委位不求讓;稱己不疑伐,而讓人無懼情。故能功成於戎狄,身全於邦家也。 列女伝皇甫規の妻は安定郡の人である。[注釈 1]彼女は、嫡妻が死んだあとに皇甫規のもとへ嫁いだ。文才があり、草書がうまく、皇甫規のために代筆することもあったが、人々はその達筆に驚いたという。皇甫規が死去したとき、その妻はなお若く、容貌もうるわしかった。相国となった董卓は、そのことを耳にすると、彼女を娶ろうと考え、輜軿[注釈 2]百乘,馬二十匹,奴婢や銭帛を用意したが、それらの贈り物で道が塞がるほどであった。皇甫規の妻は軽装で董卓のもとへ赴くと、跪いて陳情し、いたましいほどに辞退した。董卓は、お付きの従者に抜刀した状態で彼女を取り囲ませ、「孤(わたし)の威教は四海(天下)を靡かせるものだというのに、どうして婦人ひとりに対して通じないことがあろうか!」と言った。逃れられないと悟った皇甫規の妻は、董卓を罵った。「君は羌胡の生まれでありながら、天下に害毒を流してなおも足りないのか! 妾(わたくし)の先祖は代々にわたり高潔な徳をもって知られ、皇甫氏は文武の才を備えた漢の忠臣です。君の親はそれに使役される使い走りではなかったか? だのに主君の夫人に非礼を働こうというのか!」董卓は車を庭に引き入れると、彼女の頭をくびきに繋ぎ、鞭や杖で何度も殴打した。皇甫規の妻は、杖を持っていた者に対して「どうしてもっと強く殴らないのか? 早く死なせてもらえるとありがたい」と言い、ついに車のもとで死んだ。人々は後に絵を描き、皇甫規の妻のことを「礼宗」と呼んだ[1][4]。 あ
劉 焉(りゅう えん、? - 興平元年〈194年〉)は、中国後漢末期の政治家。字は君郎。荊州江夏郡竟陵県の人。 後漢末の動乱期において、各地に割拠した群雄の一人。益州の地方官として赴任しそのまま独立勢力を築き、三国時代の蜀の先駆けとなる。 生涯宗室として前漢の魯恭王であった劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。劉焉の先祖は、後漢の章帝時代の元和年間に中原から江夏郡に国替された一族のうち、江夏郡にそのまま移住した分家筋の家だという。 若くして州や郡の役所に出仕し、漢の宗室だという理由で中郎になる[5]。しかし、学問の師であった司徒の祝恬の喪に服するため、官職を辞した。 陽城山に居住し学問に励み、人々に学問を教えて名声を博し、賢良方正に推挙されて司徒府に招かれた。やがて洛陽の県令を経て、冀州刺史・南陽郡太守・宗正・太常(皇帝の祭祀を司る九卿の筆頭に当たる役職)を歴任した。 入蜀霊帝の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響により、刺史や太守の支配力が弱体化しているという理由で州牧を設置し、清廉な人物を地方に派遣することを提案した。劉焉は内心では中央の混乱を避けたいと考え、交州牧に任命される事を期待していた。しかし侍中の董扶が、益州に天子の気があると密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった[6]。 やがて、当時の益州刺史である郤倹(郤正の祖父)の失政が伝えられ、また并州や涼州でも刺史が殺害される事態となったことから、中平5年(188年)、牧伯制が実施された[6]。劉焉は、自らの希望通りに監軍使者・領益州牧となり、陽城侯に封ぜられ、郤倹を取り調べるという名目で益州に赴任することになった[6]。董扶は蜀郡の属国都尉として劉焉に随行することになり、太倉令で巴西の趙韙も官職を辞して劉焉に随行した[6]。 この頃、後漢の衰退に乗じて馬相・趙祗ら黄巾を号する賊徒が益州で反乱を起こしていた。馬相らは緜竹県令の李升を殺害し、さらに雒県を陥落させると、郤倹を殺害した。さらに蜀郡・犍為・広漢の三郡を蹂躙した馬相は、天子を自称した。(馬相の乱)。馬相の軍勢は5桁に上っていたが、益州従事の賈龍は1000人余りの兵を率いて、官民を糾合して馬相らを攻撃して敗走させ、この反乱を鎮圧していた[7]。 独立構想劉焉は州牧として益州赴任を目指したが、道が閉ざされて益州に入れず荊州の東の境界にいたところ、賈龍が吏卒を派遣して劉焉を迎え入れた[8]。劉焉は賈龍を校尉に任命し、緜竹を拠点とした。劉焉は離反した者達を手懐け迎え入れ、寛容と恩恵で住民を懐柔しながら、秘かに独立する構想を持ったという。 南陽・三輔の民数万戸が益州に流入してくると、これらを兵士として編成し、東州兵という軍団に作り上げたという[9]。 巴郡には妖巫かつ別部司馬の張脩が拠点を置いていた。また張魯が主導する五斗米道という宗教団体も存在した。張魯の母親は若々しくて美しく鬼道にも通じていたといい、劉焉は彼女を自分の家に行き来させる程の関係を築いた。劉焉はさらに張魯を督義司馬に任命すると、張脩と共に漢中に派遣して、橋を切って道を遮断させ、漢中太守の蘇固を殺させた。その後、張魯は張脩を殺してその兵を吸収した[10]。劉焉は中央への弁明として「米賊(張魯)が道を断ったため、連絡が取れない」と上書した[11][注釈 3]。その一方で、劉焉に反発した益州豪族らを弾圧し、王咸・李権(李福の父)ら10人余りを殺害した。この振る舞いに、かつて劉焉を迎えた賈龍と犍為太守の任岐ら現地の豪族が憤激して反乱を起こすと、劉焉は乱を鎮圧して賈龍と任岐を殺害した[注釈 4]。このとき、益州西部にいたチベット系の青羌部隊を用いたという[9]。劉焉は叛乱鎮圧の恩賞を羌族に与えなかったので、それが原因で激怒した羌族が緜竹付近に侵攻することとなった。 初平2年(191年)、賈龍らの鎮圧以降、劉焉はだんだんと驕り高ぶるようになり、千乗余りの豪華な馬車を作って、その勢威を示した。荊州刺史の劉表は、劉焉に野心があることを朝廷に報告した[12][注釈 5]。 不幸の連続劉焉の子のうち、三男の劉瑁だけが劉焉の手元におり、長男・次男・四男は長安におり、献帝に仕えていた[注釈 6]。後に献帝は劉焉を宥めるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞き入れずに劉璋を二度と都に戻さなかった[注釈 7]。 征西将軍の馬騰は郿県に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、董卓没後に実力者となっていた李傕がいる長安を襲撃する計画を立てていた[15]。劉焉は援軍として、5000の叟兵を馬騰に送った[16][17][注釈 8]。しかし計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した[19][注釈 9]。李傕は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを討ち取り、弟の劉誕も捕虜にされて処刑された。 議郎の龐羲は、先祖代々劉焉の家と交際があったため、劉焉の孫を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕えることになった。 この時、落雷によって居城としていた緜竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の成都に遷らざるを得なくなった。 興平元年(194年)、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から劉焉は背中に悪性腫瘍を患い、同年に死去した。 実力者であった趙韙の思惑で、温仁(温厚かつ仁徳の有る人)との評判であった劉璋が後を継ぐことになった。趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた[注釈 10]。 張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。 評価
演義での劉焉小説『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会った事にされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事実は無い。しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、劉備を遠縁の親族として兄事する伏線となっている[21]。 脚注注釈
出典
参考文献
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